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真宗の教え 
真宗の教え同朋大会共にといえる人生講座宗祖御遠忌教化関連 
第17回三条教区同朋大会

感話 挨拶、服部氏 佐々木氏 布施氏 藤岡氏、挨拶

感話2(佐々木 シズ 氏)

 ただいま紹介していただきました佐々木シズです。
 なぜ、いま私がこのようにみなさんの前に立たせていただいているのでしょうか。こんなに大勢の人の前で話などしたことのない私に、突然、「もうあなたに予定しているんだから」という話が舞い込んで来ました。
 もう、びっくりして、何をどう話をしていいのか、まったくわかっていない私です。そんな私に貴重なこの時間を与えてくれる。きっと自分にとって何か必要なことなのかな。そんな勝手な解釈をして、自分の今までを少し振り返ってみようと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
 聞法に出遇うまでの私は、好きな唄や踊りを趣味にして毎日楽しんでおりました。楽しむことは当たり前。当然。誰のおかげで楽しませてもらっているのか、そんなことは考えてみようともしておりませんでした。そして、楽しいはずのその趣味も、月日が経ち、また楽しめば楽しむほど虚しくなり、満足感が得られないのです。こんなことをしていていいのかな。何か間違っているのじゃないかな。こんなふうに迷い出して。
 そんな折、月経においでくださる住職さんに、「寺へ来なさいや」といつもそう言って誘っていただいておりましたことを思い出しました。「行ってみようかな」、「でもお寺なんてもっと歳をとってからでいい」、そのように決めておりましたのですけれども、思い切って行くことにしました。
 そして、はじめて足を運んだそのお寺で、初めて「けさ今朝じろ白同朋会」の猪飼さんという人に、「わが家でも聞法会をやっているから、どうですか。来ませんか」と誘っていただいて、さっそく仲間入りさせていただきました。同時にお寺の方にもできるだけ足を運ぶように心がけておりましたところ、住職さんから「本廟奉仕、どうだ」、そんな声も聞かせてもらって、そしてそういうご縁にも出遇わせていただきました。
 「法名は死んでから付けるもんだよね」としか思っていなかった私が、法名を賜り、「今日から仏弟子だよ」と言っていただいたときの、あの感動。それが今こうして聞法を続けている私の心の糧になっているのです。
 でも、そうして聞法を重ねてはみたものの、日が経つにつれ、また迷いだしてきたんです。「自分って、本当に念仏者なんだろうか」「じゃあ、本当の念仏者ってどういうこと」。私って、本当にわがままなんですよね。いっそのこと、何も知らなかったときの方がよかったかも。そんなふうに迷いながらも、朝の「お正信偈」に遇わずにいられない私が、そこにいるわけです。
 私は、「お正信偈」の声明が大好きです。それは、何となく心が落ち着くということはもちろんですけれども、自然と涙が出てくるのです。その涙は、嬉しいとか悲しいとか、そういうものではないようです。
 口では、言葉では、あの感覚は表現できないのですが、自分の緊張がとれるというのか。緊張がとれるということは、"それでいいんだよ""そんなに力まなくていいんだよ""そのままでいいんだよ"と。ありのままの自分に落ち着かせてくれる。そう落ち着いたときの涙かな。「お正信偈」は私にとって、自分を素直にしてくれる唄のようです。
 さて、今朝白同朋会においては、いつも、いろいろなたくさんの人から、それぞれの考え方が続出して、いつもにぎやかな議論、話し合いになります。たとえば、親鸞聖人の教義を熱心に求めている人。寺のあり方を真剣に論ずる人。同朋会運動に熱心に取り組んでいる人。それから、「やあ仏教用語だ」、それを一所懸命勉強なさっている人。念仏申して浄土に救われたい、そう願っている人など等。いろんな議論が話しあわれます。
 その議論を、すごい人たちだなと思って聞きながら、私はいつも思うのですけれども、人はそれぞれ生まれてきますが、生きてきた環境も、業も異なります。また、生まれながらに、その人に必要性があって与えられ、その必要性があるがゆえに、無意識のうちに道を求めなければならない力が、それぞれにあるのではないだろうか。だとしたら、求める道も、信心のあり方も、人それぞれ違っていていいのではないか。何も、こうでなくてはならない、と決め付ける必要はないのではないか。そのような素朴な疑問を持ちながら、未熟な私は聞法しております。
 今日は、みなさんに教えていただきたいと思いまして、私の拙い感話とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。


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