大変な苦労の中で、どうしてお念仏を伝えてきたか。それはやはり、お念仏が生きる力になったということなのではないでしょうか。そのお念仏の意味、意義や、お念仏にはどういう味わいがあるのか。これは、まずは称えてみなければわからないことではあるけれど、さらには、お念仏の心や、念仏申せという教えが、どういうところに由来するかということを、身を通してたずねていくという聞法がなければ、お念仏は口先だけのことになって、生きる力にならないわけでございます。
ちょうど、いまからほぼ五十年前。同朋会運動発足は、親鸞聖人の七百回忌御遠忌に由来するということでございます。来たる二〇一一年が、親鸞聖人の七百五十回忌という節目の年でございます。今が二〇〇五年ですから、あと六年ということでございます。ということは、四十四年前に、七百回忌の御遠忌が勤められました。その時に際して、国内各地に、台風による災害など天変地異があって、七百回の御遠忌をどのようにしてもっていくかということは大変困難な状況でした。
四十四年前のことですから、ご承知の方も多いと思いますけれども、その中で、御門首からご消息の中に、三カ条のお勧めが出されました。
一、ともに念仏の手を相携えて、いよいよ同朋の契りを深むべきこと。
一、正見に住して、人生の禍福に惑わざること。
一、我が身の偏執を捨てて、人の世の福祉に努むべきこと。
ということが、ご消息・お手紙で、全国の真宗門徒に配られたのでございます。それは、『曾我量深講義集』(弥生書房)第十五巻、『信心の智慧』の中に載っているのでございます。
その前文には、御門首みずから全国の被災地を巡回なさったことから書かれています。
そもそも、客年は未曾有の台風によって、国土のいたるところに稀有の損亡を受け、ことに宗祖聖人七百回御遠忌を眼のあたりにして、われらが同朋おおいなる惨禍を蒙り、人心ために安きを失いたることいたましき限りなり。
我ただちに現地をめぐり、つぶさにその惨状を見聞せしに、あわれといわんや、悲しともいわんか。まことにその言葉を知らざるものあり。
しかれども、ここにさらに憂うべき一事は、利害のために条理を失い、同胞相い食むの世相にして、その因(もと)は、人間に備われる悪性のあらわれとはいいながら、まことに悲しむべきことにあらずや。かくのごときは、伸展極まりなき人智をもってするもまぬがれがたく、これぞすなわち今時の人心不安の根源にして、この時もし真実の教法に遇うことなくんば、相共に破滅の底に沈まんこと、言を待たざるなり。(曽我量深講義集一五『信心の智慧』一三七頁)
と。利害のために、人間の筋道を失い、仲間同士が食べあう。同胞相い食むの世相。そのもとは、人間に備わった悪性のあらわれとは言いながら、伸展極まりがない人の知恵をもってしても、避けがたい。これこそ、今まことのみ教えに遇うことがなければ、我々は破滅の底に沈んでいくに違いない。こういうような認識が、もうすでに四十四年前にあらわされたわけでございます。
ますます今日は、コンピューター、インターネットの普及によって、子どもたちまで携帯電話を持ち、情報の交換が当たり前に行なわれているのですが、それこそ人間の知恵の進歩ではあるけれども、人間の悪性は治っておりません。何に携帯メールが用いられているか。人間の悪性は照らされておりません。その悪性をきちんと照らすのが、まことのみ教えである。それこそ今日の感話のお一人、藤岡さんがまさしくおっしゃったとおりのことでございます。
御門首の消息とは、おそらく、これはお一人でお書きになったものではないと思います。いわゆる宗門の叡智を傾けて文章を練り、発表されたものだろうと思います。その終わりのところに、先ほどの三つの項目が勧められたのであります。これは昭和三十五年のことでございますので、七百回御遠忌の直前に、このような三カ条が出されたわけでございます。
これにつきまして、曾我量深先生の談話が真宗大谷派の聞法誌「同朋」に掲載されたのでございます。その中に、
三ヵ条の趣旨は誠に結構でありますが、第一条の念仏の意義が門末にはわからぬのではないでしょうか。老人はわからぬままに念仏を称え、若者は念仏の意義がわからぬために称えないのではないかと思います。念仏の意義を明確にすることが今日では特に必要かと存じます。第三条に示されたようにわが身の偏執を捨てて人の世の福祉に努めるためには、第二条の迷信を捨てることが必要であり、その迷信を捨てるためには念仏によって先ず正信を成就することが根本であります。ゆえにその念仏が如何なるものであるかということを明らかにすることが何より大切であると存じます。(同一三五頁)
とあります。三番目の「我が身の偏執を捨てて、人の世の福祉に努むべきこと」とは、我執の偏ったとらわれを捨てて、人の世の福祉に努めるべきことです。俺さえよければいいというような、がりがり亡者のエゴイズムに閉じこもって、それを正当化するのではなくて、「人の世の福祉」、「福祉」というのはまことの幸せということでございます。人の世の福祉に努めることができるのは、第二条の「正見に住して、人生の禍福に惑わざること」。正しいものの見方・考え方に従して、人生の禍福に惑わないことがなければならない。
つまり、三番目の項目を成り立たせるのは、二番目の項目である。第二条の「人生の禍福に惑わない」ということは、禍はわざわい、逆境です。いわゆる不幸な出来事。福はよい出来事。順境です。これが、バチが当たってわざわいがあるとか、禍福のうち、わざわいは除いて福だけ得ようとして、神やほとけに祈るとか。あるいは、誕生日の星座や姓名判断やの占いに走り、日にちのよし悪しを見る。そういうことが、禍福に迷っているということでございます。ですから、そうではなくて、正しいものの見方。たとえば、物事は条件が整って成り立つのである。様々なものは単一で存在するのではなくて、つながりを持っている。そういう、「よりて起こる」という、いわゆる縁起の道理を忘れているところに人の迷いがある。こういうような事柄をきちんと教えてくださる正しい智慧に基づく見方に従して、人生の禍いと福に惑わないこと。それができるのは、念仏によって先ず正信を成就することが根本である。ゆえにその念仏が如何なるものであるかということを明らかにすることが何より大切であるとそういうことを曾我先生はおっしゃいました。
これは一番目に「ともに念仏の手を相携えて、いよいよ同朋の契りを深むべきこと」とある念仏、これが基である。「いよいよ同朋の契りを深める」というのは、これは念仏をいただいていくというところに尽きるので、つまり、三つの項目というのは、「ともに念仏の手を相携える」という、その自ら念仏をきちんといただいていくというところにあるのであります。
特に、「老人はわからぬままに念仏を称え、若者は念仏の意義が分からぬために称えないのではないか」と言われています。実は、これは四十四年も前のことですから、「若者は」と言いましても、当時二十歳の若者は今六十四歳になっているわけでございます。どうでしょうか。念仏の意義はわかったのでしょうか。わからぬために称えないという人がどんどん出ている。真宗門徒であっても、形だけの門徒であって、お念仏をきちんと称えないようになってしまった。現代はその形すらもあやうい。
では、お念仏はどういう内容なのか、意義があるのかということですが、それを、
念仏とは、この世界における永遠真実の祈りの言葉であります。我ら凡夫はこの大いなる祈りを求めながら、それが捉えられないために、限りなく苦悩を続けているのであります。その祈りを衆生に知らしめようというのが、如来の本願であり、その祈り、すなわち南無阿弥陀仏そのものが如来であります。(同上)
と言われています。南無阿弥陀仏そのものが如来であると。南無阿弥陀仏は如来の御祈りのあらわれである。この祈りというのは、如来の御祈りというようにおっしゃったのは、本願のお心を曾我先生が、より踏み込んでお話になられたのでございます。私どもが地位や名誉や、お金を祈るという、そういう祈りではございません。如来の御祈りは、よく生きよ。真実に生きよ。いのちの道理に従って生きよ。あなた自身として生きよ。そういう真実の祈りでございます。その祈りが私どもにかけられているのだと。そのあらわれが南無阿弥陀仏というお言葉であるということでございます。
まさしくお念仏申すところに、仏の心、大慈大悲心に触れさせていただく。私を生かしてくださっているおはたらきに気付かせていただく。それと同時に、そのことに感謝を忘れて、わがまま勝手をたてて暮している自分に気付かせていただく。こういうところにお念仏の味わいというのがあるわけでございます。
浄土真宗のお念仏は、「本願念仏」と申します。このお念仏申すお心を親鸞聖人が率直におっしゃった言葉が、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(『歎異抄』後序)
この一人に、皆さま方、一人ひとりの名前が入るのでございます。皆さんのためにというよりも、「親鸞一人がためなりけり」と、受けとる一人がちゃんと居らなければならないわけでございます。
それでは、その弥陀の本願を受け止められた自分というのは何ものであるかと申しますと、
さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(同上)
とございます。「業」とは、迷いのおこないのことでございまして、数知れない迷いを持って、迷いの過ちを犯してきたこの自分であるのをよくご存じのうえで、必ず救うぞと立ち上がってくださったのが本願であると。この本願が、まことにかたじけないと。自らの過ち、罪業の深さに目覚めるところに、本願に触れさせていただく。こういう心情がお念仏の内容になるわけでございます。
そのお念仏を申すということも、私ども、自分勝手な意思決定でできるわけではございません。血の動きと同様にわがはからいではない。如来の御もよおしにあずかって、念仏を申させていただくのである。
如来より賜りたる信心という点で、信心は同一である。この同一信心の人々を、御同朋と申すわけでございます。
「御同朋・御同行」というお言葉の由来はと申しますと、親鸞聖人にあるわけでございますけれども、蓮如上人の『御文』の一帖目、第一通のお言葉でございます。
故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。
親鸞は弟子を一人も持っていませんと、親鸞聖人はおっしゃった方ですと。これはもと『歎異抄』の第六条にあるのでございますけれども、先ほど申しました、如来の御もよおしによって、念仏をさせていただくのである。如来より賜った信心である。この点において、わしが教えて念仏させるとか、信じ込ませるとか、そういうものとは違うんだと。弟子一人も持たずと。共に宿業の悩みに生きているものである。凡夫であると。こういう点で、弟子をひとりも持ってはいません、と親鸞聖人はおっしゃったわけでございます。
その言葉を受けて、
されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそ、かしずきておおせられけり。
かしずくというのは、ひざまずいて、仕えるようなお姿でございます。御同朋・御同行と。親鸞聖人が、私どもに向かって、ひざまずくようにしておっしゃってくださったのだと。これが浄土真宗の教団の基本の精神でございます。
御同朋・御同行の具体的な交わりというのは、お互いにお互いを深く尊敬し、敬っていくということでございます。この同朋教団ということについて、御同朋と「御」の字があるところが大事だと、これがまた曾我先生がおっしゃったお言葉でございます。
同朋教団には二通りある。……(中略)……ただの同朋教団と「御同朋教団」とそれがはっきりしないから行きづまりがある。「御」がないから信心が理屈になる。(『親鸞との対話』二七頁)
「御という言葉がないと信心が理屈になってくる」と。御同朋・御同行。この「御」の字は、尊敬の言葉でございます。
そこで、私は、この同朋大会の呼びかけけ文の終わりにある
念仏って?「共にといえる」土台をたしかめる。
ということにつきましては、共に生きるという土台は、私どもが無智、無能、無力であって、凡夫である。いったんことがあれば、すぐにフラフラし、「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)というものである。いわゆる宿業の身の自覚において、共にということが言えるのではないかと思うわけでございます。
つまり、「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」。ここには、本願のかたじけなさというのについては、「そくばくの業を持ちける身」という、自覚というか、うなずきというか、いただき方があるわけでございます。これを忘れると、私どもは、何でも自分を正当化し、自分ほど正しいものはないというように思い込んでしまうわけでございます。
こんにちもまた、街で多くの宗教を語る団体が横行しております。特に、現実にある他の宗派のすべてが法敵であると。そういう過激な主張と動きで、自らの宗教団体を勧めているものがあるわけでございます。
私どもは、それに対決して、「こちらこそ真実の教えであって、お前のほうこそ邪教だと」、あるいは「法敵だ」と。このように言っていく必要はありません。私どもが、自らから無智、無能、無力のものであるといううなずきにおいて、本願力に遇わせていただくのだと。こういう教えでございますので、自らを自己肯定化するのではない。自ら省みて、煩悩具足の凡夫である。その凡夫として、お互いに、虚心平気に語り合っていくところにこそ、まことの人間関係がある。こういうことが、私ども浄土真宗の同朋、御同朋・御同行の交わりの姿だろうと思います。
その基本になり、定規になり、目印になるのが、お念仏である。そういういわれのあるお念仏を、また新たに、今日から申す日暮しをさせていただこうではないかと思うわけでございます。
お念仏を忘れると、私どもはすぐ三悪道のものになってしまう。お念仏申すというところに、私どもは自らを省みさせていただく。まことの智慧をいただき、また慈悲をもって癒やしをいただくわけでございます。
「共に」といえる第一は、自らがどのようなものであるかということを省みさせていただくというところにあるのではないかと思います。これを「宿業共感の大地」と、曾我量深先生は、まさしくおっしゃったのでございます。業の共感、ここにこそ土台があるということでございます。
長々と、時間を超過いたしましたが、「共にといえる、人生を生きよう」というテーマに、かなわなかったかもしれませんけれども、お話をさせていただきました。
ご清聴をいただきまして、ありがとうございました。
(講演終了)
○司会 先生、長時間にわたりまして、大変わかりやすく、歯切れよくお教えいただきましてありがとうございました。特に、四人の感話を述べてくださった方の感想を、また述べていただきましたし、この同朋大会が聞法の大会であったということを、はじめにおほめいただきました。
そして、また、我々が一番問題にしている、「念仏申す」というのはどういうことなのか。それから、「共に」とか「御同朋・御同行」ということについても、いろいろな聖経をもとに教えていただきましたが、最後に「共にといえる土台は、我々が凡夫で生きる。それよりほかにないのではないか」というように、私としては感想を受け止めさせていただきました。
皆さんせっかく三明先生に出会えたわけですので、ぜひこの機会に、先生にお聞きしたい、今日のお話でもいいし、いままでのことで何か迷っているというようなことがありましたら、時間もありませんけれど、一人、二人、積極的に挙手をして、質問をしていただきたいと思います。先生もそれをお待ちになっていらっしゃると思いますので。
○藤岡 先生、どうもありがとうございました。先ほど、感話をさせていただいた藤岡でございます。
恥かしい自分の実感を聞いていただいたわけですけれども、そのことの大切さということを、先生のご講演によって、あらためて私自身の中で確認をさせていただくことができたことに、本当に感謝申しあげたいと思います。
そして、非常に力強く覚えたことは、最後の、こんにちの打開といいますか、曾我先生の「業の共感、宿業の共感」ということでしょうか、そのことをいただいて、何か私、生きていくうえでの勇気といいますか、自分の新たな指針がいただけたような気がしているのですけれども。
もう少し個々のところで、敷衍と言いますか、いただけたらありがたいのですけれど、よろしくお願いします。
○三明 藤岡さんありがとうございます。
「無智、無能、無力の私をして、虚心平気に生かしめさせてくださる能力の根本本体が、私の信ずる如来である」と。こういうお言葉が、曾我量深先生の師匠である清沢満之先生のお言葉にございます。無智、無能、無力というと、私どもは、そこでもう自分のことが嫌になって自己嫌悪になってしまったり、また人の無智、無能、無力はあげつらって批判したりするわけでございますけれども、そうではなくて、無智、無能、無力の自分であるということ、そのままに虚心平気に、心を虚しくするという「虚」でございます。虚心ということで、含むところなく、平気に無理することなく、無智、無能、無力の自分のままに生かしてくださっているおはたらきのうえに、私どもは生かしめられているわけでございます。
生かされて生きているというのは、如来のおはたらきによって生かされているということでございますが、これは、無智、無能、無力の私のままに生かさせていただくのだ。ここに感謝の心があり、またお互いを敬う心が出てくると思うわけでございます。
「宿業、共感の大地」というのは、大変固い、また重い言葉でございますけれども、この地上に、先人の血と汗と涙が、染みなかったところがないというのでございます。この大地が。そして私どもも現に煩悩を持ち、過ちを繰り返しながら、それでもこの大地に生かさせていただき、歩かせていただいているわけでございます。
このことについて、いかに未熟な至らないものであっても認めていただいている。きちんと、目を背けないで見てくださっている。守っていただいている。こういう感覚が、私どものお念仏の信心の感覚だと思います。
「宿業、共感」というのを、いま私は、無智、無能、無力という、うなずきということで申させていただきたいと思うわけです。どれほどものを知っていると言いましても、本当のところはわからないのです。無智です。そして、こういうことができると言いましても、何も力はないものでございます。こういう自分が、ただ肩ひじを張って威張って、あるいは「バカ」と言われまいと思って、必死で暮しているわけでございますが、それ全体が非常にくたびれるわけでございます。「バカ」と言われた時に、「はい、バカです」と、ちゃんと言えれば、どれほど落ち着いた心境が開けることでしょう。親鸞聖人はその道をお示しくださったのだと思います。
まさしく「愚禿親鸞」というお名告りは、私どもと一体となって人間を全うしてくださる方のお名告であったなあと、思うわけでございます。何もできなくても、煩悩具足の凡夫でも結構だ。それでいいんだという、柔らかい真実の眼差しをいただいているということでございます。
ここを握り返して、威張るのではございません。ああ、かたじけないなという、うなだれて感謝の心がわいてくると。そういうようなかたじけなさよだと思います。それが御同朋の共感になるのです。
○司会 大変ありがとうございました。まだまだ、先生とはお別れがたい気持ちを皆さんもお持ちだと思いますけれども、いつまでも引っぱっておくわけにはいきません。時間が来ましたので、このへんで先生の講演を終わりにしたいと思います。
先生、どうもありがとうございました。
○三明
有難うございました。私もこの三条教区の御同朋のお仲間に入れさせていただきたいと思います。有難うございました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
(終了)
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