はじめに
本日と明日の2回にわたりまして「親鸞聖人と恵信尼さま」という題でお話を申し上げます。私は歴史学、日本史研究を専門としておりますので、その立場から恵信尼さまのことを中心にしてお話をしたいと思っております。よろしくお願いいたします。
さて、この東北連区坊守研修会の全体テ−マは、「寺をひらく、私をひらく」ということであるとうかがっております。このテーマはまさに現代にふさわしい、これからの進むべき道を指し示していると思います。私は今回の講演で、このテーマの精神に沿ってお話するつもりです。
私は、今回の講演のために、
1、恵信尼さまと鎌倉時代の女性
2、親鸞聖人の流罪と恵信尼さま
3、鎌倉時代の「夜」と「貧しさ」
4、越後で暮らす恵信尼さま
という4つの項目を準備しました。そのうち、前半の2つの項目は全体テーマの「寺をひらく」に対応し、後半の2つの項目は「私をひらく」に対応しております。「自分をひらく」は、いかに自分をよくするかということで、「寺をひらく」は、いかに周りをよくするかということであると考えております。両方が切り離せないのはもちろんです。
では、最初の項目の「恵信尼さまと鎌倉時代の女性」に入りたいと思います。
1、恵信尼さまと鎌倉時代の女性
伝記と現代
(1)伝記の重要性
この講演は歴史学の立場からお話をするということを申し上げました。それは、親鸞聖人と恵信尼さまの伝記を尊重しながら検討しながら進めていく、ということです。お2人の伝記を尊重することは当然だろう、ということになりますが、実は現代では私たちが思う以上に重要なことなのです。
もうかなり前から自分はどのように生きたらよいのか迷う人間が非常に増えてきました。自分探し、などということばも、かなり前から広まっています。学校では、小学校のときから「自分の生きたいように生きなさい」「自分が何をやりたいか、よく考えなさい」「自分のやりたくない道に進んでしまって、あとで後悔するということのないようにしなさい」という教育が推し進められてきました。
しかし世の中はなかなか自分の思うとおりにいくものではありません。希望の高校・大学に進学できない、自分の望む職に就けない、そして悩む、という事態になります。また自分のなかに尋ねても、そう簡単に答えが出るものではありません。でも、必ず答えが出る、出しなさいと教育されてきたのです。
そして大人になって結婚の適齢期になっても、なかなか自分の思うとおりの異性に出会えない。自分は自分の世界だけで生きてきたので、2人でどのように世界を作ったらよいか分からない人間がとても多くなったようです。結局はさびしい人生をおくる。そのことに彼らは気がつきつつあります。
『朝日新聞』2007年4月21日付の紙面に、31歳の独身女性のお便りを載せていました。それには、
自分たちは「結婚はおろか、適当な相手と出会って恋愛すらできない世代」だと思う 。
「私たちは『自分らしく生きろ』と言われて育ち、自己流の生き方を見つけて楽しん できたはずなのに、結局、孤独。親は先に死ぬのだから、結婚して子どもをつくらない限り、自分はどんどん孤独になっていくのだと、30代になってやっと気づくのです」
とありました。これは『朝日新聞』の生活面の年間企画「女と男」の連載記事に関する反響の一部です。
これはひとえに、自分らしく生きよ、その生き方は自分の心のなかに聞け、という教育の行き過ぎであると私は考えています。そうではなくて、人間は自分の外に視野を向けて心を開くべきであると思うのです。他の人たちの生き方を学び参考にする。異なる世界に飛び込んで、新しい考え方や生き方を知る。その上でそれらを乗り越えて自分自身の生き方を形づくっていくのです。学んだとおりに生きてもかまいません。いずれにしても、幼稚な子どもが「自分の好きなように生きていいよ」とか「自分の生き方は自分の心に聞くべきだ」といっても、できるはずがありません。それに、失敗して後悔したっていいではありませんか。それを乗り越えればいいのです。後悔をどのように乗り越えるか、日本の学校で教えているでしょうか。
つまり、自分の外に生きるべきモデルをたくさん求めるべきなのです。それを年齢に応じて学んでいき、そのなかから自分の生きるべき方向を見いだすべきなのです。そこで重要になるのが伝記です。現代の社会で伝記が重要であるというのは、このような意味からなのです。親鸞聖人と恵信尼さまの伝記はその意味からも大切です。私たちはお2人の伝記からさらに学ばねばなりません。
(2)歴史は変わる
「歴史は変わる」というのは、世のなかはこれからどんどん変化していく、などという意味ではありません。私たちが昔、学校の教科書などで学んできた歴史が変化してしまうのです。たとえば、江戸時代の農村は極端に貧しく、領主は農民をひどい目にあわせ続け、男尊女卑もはなはだしかった、という見方は誤りであったと最近はいわれています。またたとえば、第二次対戦前は、日本の初代の天皇は神武天皇であった、神武天皇は実在していたとされていました。しかし戦後、その実在は否定されました。他にもいろいろと例をあげることができます。このように、歴史は変わるのです。
では、なぜ歴史は変わるのでしょうか。その理由は2つあります。1つは、研究の進展によって、今までは正しいとされていたことが誤りであったと分かったり、新たな発見があったりするからです。もうひとつは、何が大事であるか、何に注目すべきであるかが変わるからです。
たとえば、親鸞聖人七百回忌のころには、いわゆる女性史という概念はありませんでした。しかしその後女性史に注目が集まるようになり、今まで明らかではなかった部分の女性の歴史もかなり明らかになりました。理由は明白です。それは1980年代以降、女性の権利が特に強く主張されるようになったからです。アメリカの人権意識の高まりの影響であり、また1980年代の日本の産業の急激な発展にともなう労働の人手不足によって女性の社会進出が強く要請され、それにともなって女性の立場も強くなっていったからです。今までの歴史の教科書は男性中心であった、女性のことももっと記述すべきであるとの要求が強まったのです。
結局のところ、歴史に何を求めるか。多くの事柄のなかで何を取り出して研究し、社会の人の前にその結果を報告するか。それはひとえに現代の人々の要求に関わってくるのです。親鸞聖人90年、恵信尼さま87年の生涯のなかの、どのような事柄に注目したらよいのか。それはこの2007年に生きる私たちが考えていくべきなのです。それでこそ私たちが現代に生きていくということになるのです。「生かされている」というのは、現実の社会を無視しては成り立ちません。同じように、恵信尼さまは当時の鎌倉時代の現実の社会のなかでどのように生きていかれたのか。それを知ることがとても大切です。
では、鎌倉時代の社会と女性のあり方について見ていきたいと思います。
鎌倉時代の女性
(1)自立と選択の生き方
イ、財産
鎌倉時代には、領地を持つ一家においては、その領地の権利に関しては女性も男性もほぼ同等でした。夫も妻も、結婚前からの領地は結婚してからも夫または妻のものでした。子どもに譲るときはそれぞれが譲りました。子どもたちは、立場によって差はあるものの、皆が譲ってもらえる権利を持っていました。男性も女性も自立のためには経済的な背景が必要なのは、今も昔も同じです。この時代の女性はしっかりと経済的基盤を持つことができました。すなわち、今日から考える以上にずっと自立していました。そして自分の生き方を、今日思う以上に選択することができました。
平安時代後期から鎌倉時代の女性は、男や夫のいうとおりにしなければいけないという人生ではなかったのです。私たちは何となく昔は男尊女卑で、しかも女性は自分の人生の方向は自分では選べなかったと思ってしまいがちですが、これらの時代には決してそうではありませんでした。
もちろん、時代や社会の束縛はあります。鎌倉時代の武士の女性たちは、結婚するまでは恋愛は自由、しかし結婚のときには家族や一族の利益になるような結婚をすることが普通でした。それは女性だけではなく、男性もそうでした。ひとり女性だけに犠牲があったのではなかったのです。
恵信尼さまと親鸞聖人の関係も考え直さなければなりません。それに経済的基盤が強かったのは親鸞聖人ではなくて、恵信尼さまの方だったようです。親鸞聖人の実家は、経済的には破滅状態でした。家庭生活においては恵信尼さまの方が強い立場にあったことが十分に考えられるのです。
ロ、自己救済の論理
自立と選択ができるからといって、それはまた今日から思うほど気楽な生活だったのではありません。日本史研究における学問的な用語に、「自己救済の論理」ということがあります。自分を救うのは自分で行なわなければならない、ということです。それはどういうことかというと、当時の裁判を例にあげて説明します。
鎌倉幕府にも現在の裁判所に相当する役所がありました。ある武士が誰かを訴えたとします。それが受理されて原告となり裁判が始まった場合、「裁判が始まった」と被告に伝えるのは原告の仕事だったのです。原告・被告の書面での争いが3回行なわれるのですが、それで決着がつかないと、将軍の前で対決することになります。そしていい負けて何も弁解できなくなった方、すなわち閉口した方が負けになるのです。
ほんとうに自分の権利を主張したければ自分で動かなければなりません。これが自己救済の論理です。なかなか厳しいものです。
(2)男女の関係
イ、夫婦で「家庭」を作る女性と作らない女性(「家族」はある)
家庭ということを基準にして考えた場合、当時の女性には、1人の男性を相手にして2人で家庭を作る生き方と、不特定多数の男性を相手にして家庭を作らない生き方と、2種類の生き方がありました。後者は、いわゆる遊女のたぐいの女性たちです。
ただし重要なことは、遊女といっても今日の私たちが連想するような、江戸時代の廓の女性たちのような売春婦ではないのです。当時、遊女には「卑しい職業の女性」というイメージはなかったことに注意しなければなりません。
遊女とは「あそび・め」のことです。「あそび」ということばは、現代の娯楽といった事とは異なる意味もありました。それは神仏に仕える、奉仕するという意味です。ですから、「め」というのは女性という意味です。したがって「遊女」というのは神仏に仕える女性という意味になります。また遊女は男性の酒席に侍るという仕事も日常的に行なっていました。
そして興味深いのは、遊女だからといって卑しい女性だと蔑まれることはなかったということです。神仏に仕えるのですから、むしろ尊敬される面もあったのです。そのような女性に対する差別観をはじめとして、人間一般に対する差別観は13世紀の後半以降、南北朝時代にかけて顕著になってきたと学問的には考えられています。
ロ、夫婦で生きるー夫婦で「家と家庭」を作る
近年、日本では夫婦別姓の問題が国会でも議論されました。でも、それが中断してもう10年近くにもなります。結婚するとほとんどの女性が男性側の姓(名字)になってしまうのはおかしいのではないか。それまでの自分の人生が否定されるような気がする、今まで社会的に活躍してきたのに、姓が変わってしまったら別人かと思われてしまう。結婚前と同じ姓でいたい。これらの女性の主張には十分な正当性があると私は思います。
かつて鎌倉時代では、すでに別姓が実現していました。というより、それが当たり前でした。たとえば、鎌倉幕府第1代将軍の源頼朝の奥さんは北条政子です。彼女は、源氏と結婚したからからといって源政子などとは名のっていないのです。室町幕府の将軍足利義政の奥さんの日野富子も、足利富子などとは名のっていないし、呼ばれてもいません。名字の自立という観点からいえば、当時の女性の方が明らかに現代より自立していたということができます。
最近はまた新しい説も出てきました。武士でいえば、夫と妻が結婚して親から分けてもたっら新しい領地へ行き、そこの地名を名字にして家庭を作るのだというのです。たしかにそのようなことがあったことも考えられます。
鎌倉時代の女性は、私たちが思う以上にずっと自立していたのです。そのなかでの恵信尼さまの一生があったのです。
恵信尼さまの人生
(1)貴族の出身
では、恵信尼さまの人生を大づかみにすると、どのようなことがいえるでしょうか。それは第1に、貴族の出身であったということです。恵信尼さまは越後の豪族の娘であったというのが現在までの定説のようになっていますが、恐らくそれは正しくはありません。詳しくはのちにお話します。
(2)夫は親鸞聖人
第2に、夫は親鸞聖人であったということです。女性の自立といっても、恵信尼さまの名前が後世まで伝えられたのはなぜかという観点から見れば、それは男性の親鸞聖人の妻であったからということは間違いないでしょう。
(3)地方に下る
第3に、地方に下ったこと。恵信尼さまは夫が流罪になって越後に下るのに同行しました。またさらに関東に向かったのにも同行しました。そして最後はまた越後で生活しました。そのなかに恵信尼さまの生活があり、家族があり、信仰があったのです。
では次に、その流罪のことを軸にしてお話を申し上げます。
2、親鸞聖人の流罪と恵信尼さま
親鸞聖人と流罪
今年は「御流罪八百年」としてここ新潟県を中心に各地で記念の法要が行なわれています。1207年(承元元)2月、親鸞聖人は越後に流されました。それからちょうど800年経ちました。聖人の御苦難をしのびつつ、そこから私たちは何を汲み取るかということです。
なぜ流罪となったのでしょうか。それは親鸞聖人の師法然聖人の専修念仏に対する既成仏教界の反発が朝廷を動かして弾圧させたのだ、と考えられています。住蓮と安楽という2人の門弟が死刑、責任者である法然聖人と親鸞聖人ら他の7人、合わせて8人が流罪ということでした。ただし、法然聖人の年配の高弟たちは誰も処罰されていないことに注目しなければなりません。
法然聖人は、専修念仏の理論をいまだ公けにしてはいませんでした。その理論を提示した『教行信証』は、特に信用できる数人の門弟以外には読ませていませんでした。ただ、若手を中心にしての念仏普及運動は盛んに行なっていました。それは夜に行なわれたことが多かったと考えられます。なぜ夜かといえば、多くの人たちは昼間は働いているからです。それに夜にこそ、仏様に会うことができると考えられていたからだと思われます。当時の流行歌を集めた『梁塵秘抄』に、
仏は常にいませども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
「仏はいつも私たちのまわりにいてくださるのですが、現実には私たちの目に見えないのは趣き深いことです。人が寝静まって声も聞こえない暁に、そっと夢のなかに現われてくださるのです」とあります。
暁というのは、現代の感覚と異なり、まだ夜中の真っ暗な時を指します。午前2時から3時、といった時間帯です。その時間帯こそ、人間が仏様にお目にかかれる神聖な時なのです。そしてこれは日本の伝統的な宗教観に基づいています。つまり本来、神々にお目にかかれる時間帯だったのです。
そして夜中に男女が集まれば、風紀云々のことが噂になったりします。まして、若い僧侶のきれいな声で称える念仏は、女性にとってたいへん魅力的だったと思われます。セクシーな世界も生まれたのではないでしょうか。
親鸞聖人は、晩年でありますが、和讃をたくさん作られました。和讃は皆で称えるように歌うことに特色があります。その作家は、作詩能力はもちろんながら、歌うこともセンスがよく、まきれいで魅力的な声である必要があったと思います。その感覚のなかでこそ、すぐれた和讃が作られたのではないでしょうか。すなわち、親鸞聖人は積極的に念仏普及活動を行なっておられたと思います。
他方、新たに勢力を持ってきた宗教集団は、どうしても既成宗教教団の嫉みを買いがちです。既成教団は新集団の勢力を削ごうとします。しかし教義では争いを決着させることはできません。それぞれ、自分たちの信仰の方がよいと信じているのですから、教理で争っても勝敗は決まりません。それに、法然は教理で争うのを避けようと、専修念仏の教理的正当性を世のなかに示そうとはしませんでした。既成教団は争いようがありません。
また特に奈良の興福寺を中心とする既成教団は、朝廷の力を借りて専修念仏を弾圧してもらおうとしました。しかし御鳥羽上皇を頂点とする貴族たちは、法然たちに同情的でした。熱心に念仏を広めてどこが悪いのだ、というわけです。興福寺の僧侶たちが専修念仏を禁止するようにという朝廷への願い書を提出したのは1205年(元久元)10月でした。それから朝廷では断続的に検討を続けていましたが、法然以下を特に厳しく断罪することはありませんでした。
ところが1207年(承元元)2月、後鳥羽上皇は突然のように専修念仏を風俗壊乱の理由で禁止し、法然以下の流罪と死罪を命令したのです。その理由を詳しくいえば、後鳥羽上皇が熊野へ参詣している間に、院の女官たちが専修念仏の夜の会に出席し、あろうことか感激のあまり出家してしまったから、ということなのです。その女官は、江戸時代に出た説によれば鈴虫と松虫という2人で、上皇の愛人だったそうなのです。怒った上皇は専修念仏者を処罰し、責任者としての法然聖人も罰しました。ついでに、朝廷のスポンサーである興福寺をはじめとする既成教団の気持も満足させることにした、ということであったと判断されます。
新興の宗教教団が弾圧されるとき、決まって口実にされるのは風紀を乱す、社会秩序を乱すということです。教義ではありません。これは世界中で一般的なことなのです。専修念仏者たちもまさにそうでした。その風紀に関わる、若い熱心な布教活動を行なっていた念仏者たちが処罰の対象になったのです、こうして親鸞聖人は越後に流されることになりました。
ところで流罪といっても、今日の私たちの感覚とは異なる面があります。それには3つの特色があります。第1は、流人の監視役を置くことです。越後へ流した場合、流人がどこかへ行ってしまわないように、また何か悪いことをしないように見張るのです。第2に、流人の生活を助ける保護役を置くのです。この第1と第2の役の者は、同一人であるのが普通でした。第3に、流人、特に貴族の流人は京都に戻すことを念頭に置いていました。以上の3点の特色がありました。
このような特色は、朝廷の法律すなわち律令が実施されはじめた奈良時代はともかく、鎌倉時代には実質的に行なわれていました。法然聖人は、摂関家の九条家が監視・保護の任務にあたりました。法然聖人は正式には流罪先は土佐国だったのですが、九条家の領地が京都に近い讃岐国にありました。そこで法然聖人は讃岐に留まって九条家の人たちに大切に保護されました。では親鸞聖人はどうだったでしょうか。
従来、親鸞聖人は越後に流人として流され、地元の豪族三善氏の娘恵信尼と結婚して、三善氏に保護されたといわれてきました。しかし、次に述べるように、恵信尼は越後の豪族の娘ではなく、京都の中級の貴族三善為教の娘であることはすでに明らかです。では、保護および監視の役を果たしたのは誰でしょうか。それは聖人の伯父日野宗業であったのではないか、というのが最近の説です。関係の日野氏の系図を次に掲げます。
・・範綱
・・宗業(越後権介)
・・有範・・・・・・・親鸞
親鸞聖人が越後に流される1ヵ月前の1207年1月13日、伯父の日野宗業は朝廷の臨時の除目によって越後権介(ごんのすけ)に任命されました。除目というのは、朝廷の役職の任命式のことです。定例は年に2回です。
奈良時代から江戸時代の終わりに至るまで、朝廷の役人に官職を任命する基準は適材適所ではありませんでした。現在の公務員でしたら、国民の要望に応えるため、適材適所で任命しているはずです。しかし、かつての日本では明確に異なっていたのです。ではその基準は何でしょうか。それは第1に家柄であり、第2にコネであり、そして第3に賄賂でした。そしてその基準の上に立ち、ある職を希望する者たちのなかから選び出したのです。
朝廷の官職は四等官制といい、すべての職は上下関係にある四人で構成されていました。例えば各国の国司は、長官に守(かみ)・次官に介(すけ)・第三等官に掾(じょう)・第四等官に目(さかん)という4人がいました。「権」というのは、すでに職が埋まっているのに、さらにもう1人を任命するときに使いました。すなわち、越後介は欠員ではなくすでに担当者がいるのに、何らかの理由で宗業が任命されたのです。しかも臨時に。そのうえ、甥の親鸞が越後へ流されるわずか1ヵ月前に。
このような状況からは次のことが考えられます。それは、宗業が越後へ流される親鸞の保護者になろうとした、ということです。宗業は親鸞が越後に流されることは確実だとの情報を得て、それならと、関係方面に陳情して越後の国司に任命してもらったのです。国司の次官であるとはいえ、現在の国司の威光は絶大だったはずです。
あるいは親鸞の流罪は確実との情報を得て、関係各方面に運動して急いで越後権介に任命してもらい、また運動して親鸞の流罪先をその越後国にしてもらった。このようなことも考えられます。
宗業は、実際には任地には行かなかったと思います。これはよくあることでした。徭任といいます。そうであっても、越後国府での宗業の勢威はとても大きかったのです。実際、『本願寺聖人伝絵』下本に、
巒上人(親鸞聖人)(中略)配所越後 国府、 (『真宗聖典』732頁)
と記されています。親鸞聖人は国司の威光が問題なく届く国府に住んでいたのです。また宗業は4年後の12月まで、ほぼ4年の任期を勤めあげています。国司の通常の任期は4年です。
ちなみに、「権」というのは、「仮りに」という意味で使用しています。ある役職が欠員ではなく、すでに人がいて仕事をしているのに、もう1人押し込みたいときに使うのです。このような職のことを一般的に「権官(ごんかん)」といいます。仕事は全然しない、流罪のためのものもあります。有名な菅原道真が任命された太宰権帥(だざいのごんのそつ)です。九州の太宰府は日本の外交の窓口であり、九州全体の国々を統率する役目もある重要な役所でした。その長官を太宰帥といいました。そしてその権官の太宰権帥は京都の朝廷で勢力争いに負けて流される受け皿でした。形式的には「太宰権帥」に任命する、ということだったのです。
あるいは権大納言のように、時代が下るにしたがって貴族の人数が増えてしまったため、定員を増やさずに実質的に大納言の人数を増員する方便として考えだされた例もあるのです。
さてもう1つ、越後流罪に関わって興味深いことがあります。それは親鸞聖人の結婚生活に関してです。聖人は恵信尼さまと結婚したとはいっても、実際の生活はどうだったのだろうかと、私は多少懸念しているのです。それは僧侶には不淫戒(ふいんかい)があるので、結婚してはいけなかったはずです。聖人はまだ正式の僧侶だったのです。
ところが親鸞聖人は流罪となりました。『本願寺聖人伝伝絵』下本に、
僧儀を改めて姓名を賜って遠流に処す。予は其の一なり。(原漢文)
(『真宗聖典』732頁)
と還俗させられたことが記してあります。そして藤井善信(よしざね)という俗名を与えられたのです。なぜ還俗させられたかといえば、僧侶は国の宝であって、そのままでは朝廷が罰することはできなかったのです。刑罰に処するときは、還俗させて俗人にしてしまう必要があったのです。ちなみに法然聖人も同時に還俗させられて、藤井元彦(もとひこ)という名を与えられています。
還俗したら、結婚していいのです。親鸞聖人と恵信尼さまとは、流罪になったことによって、はからずも誰に指差されることなく結婚生活を送ることができるようになったということなのだろうか、と私は思い至っています。しかしこのことについてはまだ検討の途中です。
朝廷のすべての事柄を決めている根本法典である『養老律令』に、流罪になった者の妻についてのことが決められています。その「獄令(ごくりょう)」第29に、
凡そ流人科断すること已に定まらむ、(中略)皆妻妾棄放して配所に至ること得じ。 (原漢文)
「もし流人の刑が確定すれば、その流人はすべて妻妾を同伴して流罪先に行かなければならない」とあるのです。
鎌倉時代に流罪がそのとおりに行なわれていたかどうかは分かりません。しかし少なくとも妻は罪人である夫についていってもよかったことだけは確かと思われます。現実に恵信尼さまは親鸞聖人について行ったのです。しかし、当時の女性の自立度から考えれば、ついていかなくてもよかったはずです。京都に残りたければ、結婚生活を解消すればいいのです。しかし恵信尼さまはそうしませんでした。
恵信尼さまの立場
(1)念仏信仰の家
繰り返しますが、恵信尼さまは越後の豪族の娘であって、流人として流されてきた親鸞聖人と越後で結婚したのだといわれてきました。実は、京都の貴族の娘であるという説も以前からあったのです。あったのですが、第二次大戦後は越後の豪族の娘説が圧倒的に有力でした。その方が大戦後の社会の願望に適していると考えられたのだと思います。つまり、庶民の味方の親鸞聖人は貴族の出身ではない、活動されたのは名もない庶民の住む関東、奥様の恵信尼さまも地方の豪族の娘、ともに民衆のために権力者と闘った、という願望です。民衆のために闘った者はいつの時代でもいたのだ、という願望です。
しかし、まず親鸞聖人の出身のことだけを考えても、日野氏というのは貴族のなかではそれほど自慢にすべき身分でもなかったということがあります。朝廷の貴族は官位によって三段階に分かれます。正一位から従三位までが上級貴族、正四位上から従五位下が中級貴族、正六位上から初位までが下級貴族です。これだけの説明では分かりにくいので、煩雑ですが次に正確に記してみます。
上級
正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位
中級
正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、
従五位下、
下級
正六位上、正六位下、従六位上、従六位下、正七位上、正七位下、従七位上、
従七位下、正八位上、正八位下、従八位上、従八位下、大初位上、大初位下、
少初位上、少初位下、
朝廷の規則では、位(官)に応じて就任すべき役職(職)が決まっています。たとえば、従一位なら太政大臣です。正一位は、普通、人間には与えません。正一位稲荷大明神などと、神様に与えるだけです。
そして上級貴族は、官・職に応じてそれぞれ莫大な収入が与えられます。天皇の前で午前会議を開いて、政治の方針を決めることができるのは太政大臣以下参議までです。上級貴族のみ、就任することができます。これも次に記してみましょう。
太政大臣、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議
少納言はこのなかに入っていません。太政大臣以下の人数は、10数人です。ほぼ、現代の内閣の大臣の数に相当しています。
正一位と従一位を「貴」、正二位から従三位までを「通貴」といいます。これらの位を与えられた人たちのことを「貴族」といいます。ですから、ほんとうは正四位上以下は「貴族」ではないのですが、通称してそのようにいっているのです。地方の国司になれるのは、従五位上から従六位下くらいの人たちです。そして下級の貴族になると、待遇はさらに一段と下がります。京都の朝廷のなかでは身分としてほとんど歯牙にもかけられません。国司には下級貴族の者も任命されますが、だいたい貴族たちは地方へなどまったく行きたくはないのです。京都ではよい職と思われてはいませんでした。
日野氏は、家柄としては中級の貴族でした。しかし親鸞の父日野有範は日野氏の分家に生まれ、しかもその三男でした。『親鸞伝絵』上巻第一段に、有範は、「皇太后宮大進」であったとあります。皇太后宮というのは、天皇の母親に仕える役所です。「大進」というのは「少進」とならんでその第三等官です。『大谷一流系図』には、有範は、「皇太后宮権大進、正五位下」とあります。これで見ると、有範は一応中級貴族に入っているように見えます。しかし実際のところ、皇太后宮の役職は、長官である大夫が従四位下、次官である亮が従五位下、第三等官の大進は従六位上です。なんと有範は下級の、しかも上から3番目の下級貴族にしかすぎなかったのです。しかも権大進なら、頼み込んでこの職につけてもらったようなものです。
『枕草子』第147段に、作者の清少納言は次のような感想を書きつけています。
みるにことなることなき物の、文字にかきてことごとしき物。覆盆子(いちご)、鴨 頭草(つゆくさ)。水・(みふぶき)。蜘蛛(くも)。胡桃(くるみ)。文章博士( もんじょうはかせ)。得業(とくごう)の生(しょう)。皇太后宮権大夫。楊梅(や まもも)。
「実際に見てみると何ということはないけれども、文字に書くと物々しく見える事柄があります。それは覆盆子、……などです」とあって、そのなかに皇太后宮権大夫が入っているのです。清少納言自身、実家は中級の貴族ですが、その清少納言に自分たちの身分相当官である皇太后宮権大夫が冷笑されているのです。皇太后宮権大夫は、それより2等級も下の職です。『親鸞伝絵』上巻第1段に、親鸞聖人は、
朝廷に仕えて(中略)栄花をも発くべかりし人なれども、
(『真宗聖典』724頁)
とありますが、とてもそのような状態ではありませんでした。
また有範の長兄の範綱と次兄の宗業は、いずれものちに後鳥羽上皇の信任を得て、従三位まで昇りつめます。しかしその職歴を見ると、範綱は若狭守の経歴が知られている程度です。これは正六位下相当の職です。宗業には、式部大輔や文章博士などがあります。式部大輔は正六位下、文章博士は正七位下相当の職です。なんと清少納言が『枕草子』で冷笑したなかに、皇太后宮権大夫とともに入っているではありませんか。
親鸞聖人は日野氏の出身であるというのは『親鸞伝絵』を著わした覚如の創作であるという説があります。その説では有範も架空の人物であろうといいます。しかし貴族社会においては、「日野有範」の子であるといっても、少しも自慢にならなかったのです。出身を誇ろうと思ったら、貴族社会で尊敬されるべき家柄に結びつければよかったのです。たとえば関白誰々の子孫であるとか。覚如がそのようにしなかったということは、親鸞聖人はやはり日野氏の出身、そして日野有範の息子と考えてよいと、私は判断しています。
さて、それに対して恵信尼さまです。恵信尼さまが京都の貴族の出身であるという根拠を二つ述べておきます。恵信尼さまの父三善為教と同一人物であると判断される三善為則という人物が、関白九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』治承2年(1178)正月二十七日条に、
越後介、(中略)去る年の臨時の給の三善為則を停る。 (原漢文)
とあります。「何年か前に臨時に任命していた三善為則の越後介を解任する」という意味です。治承2年というのは、恵信尼さまが生まれる4年前です。
そのころ、中級の貴族が上級の貴族の家に出入りして、家政の煩雑な雑務を処理してあげるということよく行なわれました。なにせ、出世し職を得るためには上級貴族の知己を得なければなりません。そのために進んで家老のような仕事をさせてもらったのです。これを家司(けいし)といいました。
三善為教(為則)は臨時に大きな利益のある職を与えられたくらいですから、九条兼実の家司であったと推定されます。ただし現地には行かず、相変わらずお礼の意味も含めて京都の九条家に出入りし、九条家に尽くしていたものと思われます。そして為教の家族も同様です。特に女性たちは九条家の姫たちに仕え、もしその姫が天皇の皇后になるということにでもなれば、誠心誠意、心を込めて支えるのです。そして家司は三善為教だけではなく、他の氏族の人たちもいたのです。
ところで、全国の国々の国司の長官である守と次官である介は、中央の貴族が就任すべき役職でした。地方の豪族がいくら勢力があるといっても、就任できる役職ではなかったのです。試みに、「三善」という姓で守と介に就任した人を奈良時代から南北朝時代まで数十人を調べてみると、すべて中央の貴族です。そのなかで一人三善為則が地方の豪族であったとは考えられません。これが恵信尼さまが京都の貴族であった根拠の第1でです。第2は、恵信尼さま自身の手紙の文法の分析からです。恵信尼さまの手紙の第3通とされている、次の文章があります。
山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあ か月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世のことは、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、 (『真宗聖典』616頁)
有名な、親鸞聖人の六角堂参篭と法然聖人の門に入ったことを記述した部分です。この手紙を書いたときは恵信尼さまは81歳です。親鸞聖人が亡くなったことを京都の覚信尼さんが知らせてきたことに対する返事です。恵信尼さまは過去のこと、親鸞聖人29歳、自分が20歳のときのことを振り返っています。
ところで、このころの日本語は、過去を述べるときには「過去を表わす助動詞」を使うのが普通でした。現在でも、例えば孫が昨日幼稚園へ行ったのでしたら「昨日、孫が幼稚園へ行った」といい、記します。今日、これからのことなら「これから幼稚園へ行く」といいます。過去形と現在形とを使い分けます。私たちはその使い分けを意識してはいません。ごく自然に口から出るのです。恵信尼さまのころもそうでした。
でも「昨日、孫が幼稚園へ行った」だけでは、孫が幼稚園へ行ったのを私が見ていたのか、見ていなかったのか、その区別はつきません。もし見ていたことをいいたいのでしたら、「昨日、孫が幼稚園へ行った。私はそれを見ていた」とか、「昨日、私は孫が幼稚園へ行ったのを見ていた」などとしなければなりません。
恵信尼さまのころは、過去のできごとで自分が見ていたか、いなかったか、助動詞の使い方一つではっきり分かったのです。そして自分が見ていなかったときには「けり」という助動詞を使いました。過去のことで他人から伝えられた内容について話すときと述べるときに使ったのです。これを「過去を表わす伝聞の助動詞」といっています。「けり」は「けり、ける、けれ」と活用しました。
一方、自分が見ていた過去のできごとには「き」という助動詞を使いました。自分が体験したことですので「過去を表わす体験の助動詞」といいます。「き」は「き、し、しか」と活用しました。
さて、このことを見た上で恵信尼さまのお手紙を読みなおしてみましょう。親鸞聖人が六角堂へ篭もられたことを述べた部分には「過去を表わす伝聞の助動詞・けり」の活用形を使っています。この話はのちに親鸞聖人からお聞きになった話に違いないのです。ところが、親鸞聖人が法然聖人のもとに百日通われた話になると、「過去を表わす体験の助動詞・き」の活用形を使っています。なんと、恵信尼さまは法然聖人のもとへ通われる親鸞聖人をご覧になっていたに違いないのです。それはご自分の体験だったのです。
そのような観点から検討してみますと、恵信尼さまの実家三善氏について、興味深いことが分かります。それは三善家は熱心な念仏信仰の家であったということです。また為教まで3代にわたって越後介を務めたと考えられることです。系図は次のように示すことができます。
三善為長(越後介)・・・為康(越後介)……為教(越後介)・・・恵信尼
為長は1054年(天喜2)に越後介に就任しています。為康は為長の養子ですが、1124年(天治元)に同じく越後介に任命されています。1178年に越後介を解任されている為教は、名のりに「為」の字を共有する類似性と同じ越後介に任ぜられていることから、為長・為康の系統と考えられます。
為康は熱心な阿弥陀信仰を持っていました。彼は『拾遺往生伝』と『後拾遺往生伝』を編纂しています。往生伝というのは、阿弥陀仏の信仰のあつい人たちの伝記を集めたものです。また藤原宗友の編の『本朝新修往生伝』によれば、その第22に、「算博士為康」として、為康自身の念仏者ぶりが記されています。
また『拾遺往生伝』上の序に、この書物は、
台嶺黒谷聖人浄意、魯山、朱●、弟子為康、合力して之れを撰す。(原漢文)
とあります。台嶺すなわち比叡山の黒谷というところは、天台宗教団の主流をはずれた多くの念仏僧が集まっている所でした。三善為康は彼ら念仏者と仲がよかったということになります。ということは、彼らの保護者でもあったということなのです。法然聖人も、この黒谷で念仏修行をして名が知られるようになりました。黒谷で修行する僧侶たちは皆、「黒谷」の「上人」なのですが、のちの浄土真宗で「黒谷上人」といえば法然聖人のことをさします。
三善為康は1239年(保延5)に亡くなりましたが、三善家と黒谷の念仏者たちとの親しい関係は続いていたものと思われます。三善為教が為康の嫡子であったかどうかは分かりませんが、黒谷から出た法然聖人にあつく帰依していたのではないでしょうか。
法然聖人と九条兼実の親しい関係は1189年(文治5)から始まります。法然聖人が兼実のために『選択本願念仏集』を著わしたのは1198年(建久9)のことです。これらのことに、九条家の家司で黒谷と親しい三善家の為教が無関係であったとは思えません。
そして恵信尼さまの誕生は1182年(寿永元)です。恵信尼さまはこのような家族の雰囲気のなかで自然と法然聖人に帰依し、その法会の座にも親しんでいたものと考えられます。そして1201年(建仁元)、29歳の親鸞聖人が東山に住んでいた法然聖人のもとを訪れたのです。恵信尼さまは20歳でした。熱心に百日も通う親鸞聖人のことは、三善家で話題になっていたに違いありませんし、また恵信尼さま自身も親鸞聖人をご覧になっていたのと思われます。それに、恵信尼さまのお手紙に次のようにあることも興味深いものです。このお手紙は前掲のものです。
ただ、後世の事は、善き人にも、悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、 ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしかば、
(『真宗聖典』616〜617頁)
「後世のことは、善人であっても悪人であっても、救われる方法は念仏だけであると、それのみ仰せられたのを承り、確信しましたので」とある文章に、2ヶ所、「過去のことを著わす体験の助動詞」が使われています。これは親鸞聖人が法然聖人の教えを受けた場面を述べた部分なのですが、恵信尼さまは自分の体験としても述べておられるのです。すなわち、恵信尼さまは親鸞聖人と同じ法然聖人の法会の座におられたこともあったということになります。
その法会の座を媒介にしての親鸞聖人と恵信尼さまとの結婚、と私は考えています。恵信尼さまが京都の貴族の娘なら、わざわざ越後へ行って結婚するはずはありません。
(2)貴族の娘の生活
若いころの恵信尼さまの日常生活はどのようなものだったのでしょうか。それは結婚後の恵信尼さまの苦労に直接結びつくことなのです。
まず恵信尼さまが日記をつけておられたことは確かです。恵信尼さまのお手紙に第六通に、
その時の日記には、 (『真宗聖典』620頁)
とあります。これは恵信尼さま自身のことについて記されたものですから、間違いありません。
また当然、和歌や管弦の遊びなどは習ったことでしょう。なにせ、場合によっては皇后になる女性について宮中に入らなければならないこともあるのです。恵信尼さまは『源氏物語』を書いた紫式部や『枕草子』の清少納言と同じ身分でした。それどころか、今をときめく関白家の家司の娘ということになりますから、経済的にはずっと恵まれていたものと推定されます。清少納言は『枕草子』のなかで、女性が教養として身につけるべきは習字・和歌・琴・笛であるといっています。
他方、恵信尼のような身分の女性がしてはならないことがありました。それは日常の家事です。ご飯を炊く、食事の盛りつけをする、洗濯をする、育児をする、などです。もちろん、畠仕事などしてはいけません。つまり、他人から見える労働をしてはいけなかったのです。それは卑しい仕事で、使用人がするべきことだったのです。育児について、『枕草子』161段に、次のように記されています。
苦しげなるもの、夜泣きというものをするちごの乳母。
「苦しそうなのは、夜泣をする赤ん坊の乳母」というのです。貴族の女性は子どもを生んでも育児はすべきでなかったのです。多くは家来筋から乳母が選ばれ、その乳母が面倒をみたのです。
また『伊勢物語』の「筒井筒」には次のような話があります。ある中級貴族の息子には幼なじみの妻がありました。しかし河内国に新しい妻ができて通い始めたのです。河内国の妻は、最初のころこそ奥床しくしていましたが、夫に慣れてくると食事の際に自分で杓子をとって飯を盛ったので、男は幻滅して通うのを止めた、という話です。貴族の妻は自分で飯を盛ってはいけなかったのです。それははしたないことで、召使がすべき仕事だったのです。
このような教育を受けた恵信尼さまが、やがて関東で一家7人または8人の生活を切り盛りするに至るまでには、かなりの心の葛藤があったであろうと私は推測しています。家事万般をこなす能力・技術もそうですけれども、そんなことはしてはいけないのだ、家来にさせるべきだというプライドを乗り越えるのが大変だったのではないでしょうか。
恵信尼さまの選択
(1)2つの選択肢
恵信尼さまが具体的にどのような結婚生活を送っておられたか、詳しいことは分かりません。ただ当時の一般的な習慣に従って、親鸞聖人は恵信尼さまが住む屋敷で生活されたことでしょう。もうずいぶん崩れてきているとはいいますが、結婚すると男性は女性の家に入り、衣食住の面倒をみてもらうのが普通でした。女性の親に新しく家を建ててもらってそこで生活することもありましたし、男性側の家で生活することもありました。このような複数の場合があることを示す、漢字のおもしろい使い方があったのです。漢文風に示せば、
花子、嫁二太郎一 ……A
という文章があったとします。現代の感覚で理解すると、「花子さんは太郎さんの嫁になったのだな」ということでしょう。しかし当時、
太郎、嫁二花子一 ……B
という表現もあったのです。すると「太郎さんは花子さんの嫁になった」ということか、それはありえない、ではどういうことだろうか、という疑問となるでしょう。このことの答えは次のとおりです。
新婚の夫婦がどちらの家を新居とするかで、文章が決まったのです。花子さんが太郎さんの家に入って住むことになった場合は、Aなのです。逆に太郎さんが花子さんの家に入って一緒に生活することになった場合には、Bという表現方法をとるのです。「嫁」という漢字は女性の状態を示す字ではなかったのです。
しかも当時、僧侶は正式には結婚できなかったのです。鎌倉時代後期に著わされた『沙石集』に、後白河上皇の発言として、次のことばが記されています。
せぬは仏、隠すは上人。
「仏像は男女関係を行なわないけれども、僧侶のなかには行なう者がいます。しかしそれは隠さなければならないことです」。このような社会風潮のなかで、親鸞聖人と恵信尼さまとの結婚生活にはむずかしいものがあったと思われます。恵信尼さまはどのような心境だったでしょうか。
私は親鸞聖人が法然聖人に十分に信用してもらうまでに2、3年はかかったであろうと思っています。恵信尼さまとの結婚も、そのあたりではなかろうかと思うのです。仮りに3年後として、そのとき親鸞聖人は32歳、恵信尼さまは23歳です。その後、流罪までの3年間お2人はお互いの理解を深めたようです。これはどのようなことから推定されるのでしょうか。それは親鸞聖人の流罪にあたって、恵信尼さまは越後へともに行く決心をされたことから推定できると私は考えています。
すでに述べたように、罪人の妻は流刑地に同行するようにというのが奈良時代以来の朝廷の規則でした。そのことを定めた『養老律令』には、同行しなくてよい場合の例をいくつかあげています。しかしそれがどうであっても、関白の関係者であったら、同行したくなければ行かずに済む方法はいくらでもあったでしょう。
(3)親鸞聖人に同行
恵信尼さまがどのくらい悩んだか、それも分かりません。でも26歳の恵信尼さまが下した決断は、夫と一緒に越後に下るということでした。夫の伯父日野宗業が越後権介となりました。越後国府に住んでいるかぎり、守られた生活ができることが予測できます。それに、越後には為長ー為康ー為教と、3代にわたって越後介として権威を示した成果があるはずです。すなわち、三善家の領地があったことが考えられます。為教が越後介を辞めてからちょうど30年が経っていますが、領地や何らかの権利は依然として有していたものと思われます。なぜなら、これから70年ののちにも恵信尼さまは領地と下人を有していたからです。これは父から譲られたとみるのが妥当な考え方でしょう。
ただ現代の私たちは知っておかなければならないことがあります。それは、そのころは1つの領地については、複数の領主がいたということです。たとえば、仮りに新発田荘という土地があったとします。このような荘園を開いた現地の小領主、その小領主が荘園を寄進するという形で頼った豪族、その豪族が他の豪族からの侵入を防ぐため、さらにこの荘園を京都あたりの寺院か神社に寄進する。そしてその寺院あるいは神社は大貴族に寄進して荘園を守ってもらい、また税金免除など何らかの特権を与えてもらう。ここには4人の領主が存在することになります。上から本家、領家、地頭、名主です。こういったことが普通でした。
現地で実際に領地の経営にあたっているのは名主あるいは地頭です。そしてこの4種類の領主は領地から上がってくる収入を分け合う、ということなのです。このような形態が普通でした。ですから、三善家の領地といっても、その領地から上がってくる収穫物全部を手にすることができるわけではないのです。
そうであっても、恵信尼さまにしてみれば越後に三善家の領地があることは心強かったことでしょう。
越後での生活
(1)比較的楽な生活環境
朝廷では、諸国に罪人を流す場合、国のなかのどの場所に住まなければいけないと指定することはありません。現地の状況によって決まります。蓮如さんが書写した『歎異抄』の奥書によれば、親鸞聖人は越後国府に住みました。現在の新潟県上越市です。海岸にはここが親鸞聖人が上陸した所だという場所があります。居多ケ浜です。記念碑も建っています。罪人ですから朝廷の護送役がついてきています。厳密にいえば、その集団が船できたのか、京都から最後まで歩いてきたのか分かっていません。
従来、親鸞聖人一家は苦しい、気の毒な流人生活を送ったという見方が一般でした。しかし少なくとも経済的観点から見るかぎり、楽な生活ができたと思われます。理由は前に述べたとおり、伯父日野宗業と三善家の保護があったであろうからです。身分的にも尊重されていたと思われます。何といっても、現職の越後権介の権威は絶大です。それに親鸞聖人は罪人とはいっても、殺人などの罪を犯した粗暴犯ではありません。夫婦ともに教養の高い貴族ですから、現地の人たちも恐れる必要はありません。逆に敬意を表されたでしょう。
それに国府には国分寺その他の寺院もあります。多くの経典も所蔵されていたでしょうから、親鸞聖人はずいぶんと勉強もされたことと思います。
国府を出ても、とにかく越後権介の甥と名のれば粗末には扱われなかったはずです。むろん、京都で三善家のなかで暮らしているのに比べれば、不便なことは多かったでしょうが。
(2)家庭生活
恵信尼さまのお手紙の第五通に、
信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとおぼえ候 う。 (『真宗聖典』620頁)
とあります。逆算すると、信蓮房の生まれたのは1211年(建暦元)のこととなります。すなわち、親鸞聖人が越後に流されてから四年目です。私は信蓮房の前に、恵信尼さまとの間の子として娘の小黒女房が生まれていたのではないかと推定しています。その根拠は、第1に諸種の親鸞聖人関係系図では常に小黒女房の名が信蓮房の右側に記されていることです。これは系図を書く場合の約束ごとで、兄妹のなかでの年上を表わします。次に関係系図を記しておきましょう。
親鸞(殿 )・・・善鸞・・・・・・・・・・・・如信
‖・・・・・・・小黒女房 ・・・・・・・・・女子
恵信尼 ・ ・・ 男子
・・信蓮房 (栗沢 )
・・有房(道性、益方 )・・・・子
・ ・・・子
・・高野禅尼
・・覚信尼(王御前 )・・・・・覚恵(光寿御前 )
・・・光玉(宰相殿 )
・・・唯善▲
印は恵信尼さまのお手紙に出てくる名前または通称その他です。▲印はお手紙に名前は出てきませんが、その第10通に、「一昨年やらん生まれておわしまし候いけるとうけ給わり候いしは、それもゆかしく思いまいらせ候う(一昨年だとかに生まれたとお聞きしていた子についても、知りたいと思います)」とある人です。のちの唯善さんです。
小黒女房は、恵信尼さま82歳のときのお手紙(第3通)に、
親も候わぬ小黒の女房の女子、男子、これに候、 (『真宗聖典』618頁)
とあります。「親も候わぬ」とありますから、このときすでに小黒女房は亡くなっています。人が一人前の成人とみなされるのは15、6歳ですから、小黒の女房の忘れ形見の「女子、男子」はその年齢以下であると推定されます。仮りに女子が15歳とすると、恵信尼が六17歳のときの誕生となります。恵信尼さまが23歳で結婚したとして、翌年に小黒女房が生まれたとすると、恵信尼さま67歳のときに小黒女房は43歳ということになります。
一方、信蓮房が生まれたとき、恵信尼さまは30歳です。小黒女房と信蓮房とは6歳違いとなりますから、少し年齢差が大きいような気がします。3歳違いと推定すると、「女子」が誕生したときに小黒女房は46歳となり、子を生むには年を取りすぎた年齢かなと思います。ありえないことではありませんが。覚信尼さんだって最初の子の覚恵さんを生んだのは13歳のときで、末子の唯善さんを生んだのは43歳のときです。
経済的にも環境的にも、親鸞聖人一家はそれなりの生活ができたと思います。恵信尼さまも、日常の家事を全部自分で行なわなければならないということではなかったはずです。もちろん、流人であるという精神的な圧迫もあったでしょうし、また不便さもあったに違いありません。そのなかで、自分に降りかかってきた状況に合わせて工夫して生活していくということを学ばれたのではないでしょうか。
やがて親鸞聖人は4年半ほどのちに流罪を許されます。しかしまもなく法然聖人が亡くなったためか、しばらく越後を出る気配はありませんでした。今後の生き方について検討していたのでしょう。それから2年あまり過ぎて、親鸞聖人は関東へ向かう決心をします。恵信尼さまも、夫ととも関東へ行く決心をし、一家で関東へ向けて出発します。親鸞聖人42歳、恵信尼さま33歳でした。
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