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親鸞聖人と恵信尼さま
第2日
筑波大学名誉教授
今井 雅晴 師

はじめに
 昨日に引き続きまして恵信尼さまのことを軸にしてお話を申し上げます。本日は主に晩年の越後での生活を中心にする予定です。親鸞聖人は60歳のころに関東から京都へ帰られました。しばらくして恵信尼さまは直接越後国に移られました。そして少なくとも87歳の寿命を保たれました。親鸞聖人は90歳です。お2人とも大変な長生きです。当時の平均寿命は40歳代前半であったといわれています。かの織田信長が好んだという幸若舞の一節に、

  人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢まぼろしの如くなり

とあります。「人間」というのは「じんかん」と読みます。人の世界、という意味です。その寿命は長くても50年、あっという間で夢まぼろしのようなものだ、いうことです。50まで生きる、という意味ではありません。寿命は40歳代前半だったのです。
 親鸞聖人が薬きらいっだたらしいということは分かっています。病気になっても、治療してほしくなかったようです。また恵信尼さまのお手紙ですが、その第5通に、

  善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その  夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄  せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火の  ごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。    (『真宗聖典』619頁)

とあります。風邪らしいのですが、熱が高く、ひどい頭痛で大変な事態になりました。「御身をさぐれば」とあるところに、恵信尼さまの心配されておられる様子が示されています。親鸞聖人は風邪が原因で節々が痛んでいたようなのですが、揉んだりさすったりさせず、看病しますといっても断る。当然、薬なども飲まなかったのです。「ただ音もせずして臥しておわします(じっと音も立てずに横になっているだけ)」という状態でした。
 親鸞聖人の病気観については多少の説明が必要かと思います。昔の日本人は、病気は外から魔物が体のなかに入って起こるものだと考えていました。その病気を治すためには、魔物に出ていってもらわなければなりません。それでそれに効果のある呪文を唱えたり、お経を読んだり、呪術的な動作をしたりしたのです。薬も、現在でこそ「病気の原因である病原菌を消滅させる効果がある」ものですが、当時は呪術の1つの手段だったのです。薬によって体内に入った魔物を追い出すのです。呪術が嫌いだった親鸞聖人は、このようなところでも自分の生き方に正直だったのでしょう。
 それに、親鸞聖人にしても恵信尼さまにしても、80歳代のお手紙でもしっかりした筆跡です。意識も強く持っておられたのです。
 また親鸞聖人や恵信尼さまもずっと貧乏であったことも分かっています。聖人は最晩年には弟の尋有権少僧都の家に同居させてもらっていましたし、恵信尼さまの越後での生活も飢饉が続いたりして苦しいものでした。それでも90歳と87歳までの長生き! 俗なことばでいえば「栄養のあるうまいものも食べず、薬も飲まず、どうして人の2倍も長生きができたのでしょうか」。その答えは恐らく簡単です。それは目標を持ち続けて生きておられたからでしょう。その理想とは念仏です。
 私たちは目標を掲げて生活することが必要なのではないでしょうか。よく定年退職して体調が悪くなられる方もおられます。いろいろな場合があろうかと思いますが、今まで生きがいにしてきたことが消滅し、生きる上での目標が見えなくなってしまったことに大きな原因があるように思われます。
 その観点からいえば、この坊守会で研修テーマとして「寺をひらく、私をひらく」とあるのはとても貴重なことと思います。このようなテーマはすぐに答えが出てしまう性格のものではありません。いくつか解決すべき目標をして設定して、それを追い続けることが必要であると思います。やがてはそれが生きる目標になるものと思われます。「寺をひらくこと」すなわち「私をひらくこと」、「私をひらくこと」すなわち「寺をひらくこと」としたいものです。
 では、越後国での生活という環境のなかで、恵信尼さまはどのような生き方をされたでしょうか。ご自分とご自分のまわりをどのようによりよくされていったでしょうか。昨日の最初に申し上げましたように、本日のお話は「寺をひらく」に関わる内容にしたいと考えております。
 まず、昨日と同様に恵信尼さまが生活された鎌倉時代の社会の特色の1、2から入りたいと思います。

3、鎌倉時代の「夜」と「貧しさ」

 宗教的に重要な「夜」
(1)参篭はなぜ夜か
 私たちは鎌倉時代の人たちと同じ日本列島に住んでいます。さらに、同じ日本語を使っています。それで昔のことを考える場合にかなり勘違いをすることがあります。これがヨーロッパあたりでしたら、1つの地方でも、何百年の間には異なる人種・異なる言語と文化の人たちが現われては消え、消えては現われるということになります。昔のことを考える場合、最初から昔は現在とは同じではないんだ、という前提で検討します。言語だけを取り上げても、たとえば英語でも、今から4、500年前の英語はとても普通の人には理解できません。中国語にしたって、日本人が中学校・高校あたりで読み下しにしながら中国の古典を読んでいることに、中国人はびっくりします。中国ではとてもそんな古い時代の漢文、つまりは古代中国語は読めません。
 日本人は昔の日本語がかなりの程度に理解できる幸せな人たちだという意見があります。私もそう思います。すると昔の文化もかなりに分かるということになります。
 でも現代の文化と昔の文化とでは、同じようにみえてもずいぶん異なることもあります。例をあげれば、「夜」についての感覚です。
 昔の人たちはひんぱんに寺院・神社に参篭しました。お篭もりです。お篭もりは夜に行なわれました。昨日もお話しましたように、夜、そして暁時にこそ、熱心にお祈りしお願いすれば、神や仏が現われてくださったのです。暁とは、夜明け前のまだほんとうに暗いころのことです。夜中の2時、3時、4時といったころです。あけぼのより早い時刻です。あけぼのというのは、夜がほのぼのと明けわたろうとするころのことです。
 ですから、親鸞聖人が六角堂に100日間の予定で参篭されたとき、95日のあか月に観音菩薩が出現してお告げをくださったのは、当然その時間帯であるべきだったのです。「あか月」つまりは暁は偶然ではなかったのです。

(2)神仏の出現
 親鸞聖人の『正像末浄土和讃(正像末法和讃)』の最初の部分に次のように記されています。

    康元二歳丁巳二月九日夜
    寅の時の夢に告げて云く      (原漢文)
  弥陀の本願信ずべし
   本願信ずるひとはみな
   摂取不捨の利益にて
   無上覚をばさとるなり         (『真宗聖典』617〜618頁)

康元二年(1257)年、親鸞聖人85歳のときに夢告として与えられたという和讃です。誰からの夢告であるかについては記してありません。聖徳太子から与えられたとする説が有力であるとの意見もありますが、私はやはり阿弥陀仏か観音菩薩であろうと思います。親鸞聖人の信仰のなかで、聖徳太子の役割を大きく持たせ過ぎることは問題です。特にはっきりした根拠がなければ、阿弥陀仏または観音菩薩に考えを戻すべきです。
 そしてここで重要なのは、「寅の時」の夢、とあることです。「寅の時」というのは、午前3時から5時までの時間帯です。季節にもよるとは思いますが、まだ真っ暗な時というイメージです。
 神社でも神主や巫女が重要な神意をうかがうのは夜中でした。その時に神が出現してくださるのです。そしてその神意をうかがう儀式は、真っ暗やみの時間帯に、秘密のうちに手順を踏んで行ないました。手順は秘密であり、口伝でしたので、今日にその手順や内容が伝わっていないことが多いのです。歴史研究の一環として調査しようと思っても、まったく記録がなく、文章に書き残されていない神社が多いので、その場合には調査不可能で困惑してしまいます。それから先には進めません。
 真言宗でも仏前に供える閼伽の水を変えるのは暁時です。やはりこの時間帯に仏が出現してくださるという前提で行なわれたのです。

 夜と念仏
(1)朝題目、夕念仏
 平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の貴族たちの間では「朝題目、夕念仏」ということばがはやっていました。朝には『法華経』の5文字の「妙法蓮華経」あるいは七文字の「南無妙法蓮華経」という題目を唱え、夕方には「南無阿弥陀仏」という阿弥陀仏の念仏を称えるのを日課にしていたということです。
 『法華経』は現世での繁栄を祈るための経典という見方が強かったので、貴族たちは、まず朝にはその日1日によい仕事や生活ができるようにと題目を唱えながら祈ったのです。阿弥陀仏は極楽浄土に招いてくださるという性格を持っており、その浄土である極楽は方向でいえば真西、夕日が沈むその先だと思われていました。もし夜のうちに亡くなることがあっても、必ず極楽浄土へ迎え摂ってほしい、ということで念仏を称えたのです。

(2)極楽浄土への近さ
 法然聖人の門弟たちが京都で念仏普及の活動を盛んに行なったとき、夜の念仏の会合が問題になりました。一般の人たちの仕事が終わった夜に会合を行なうのが時間的にもよいのですけれども、念仏は夜が適当であるという意識も一般に強くあったものと考えられるのです。極楽浄土には夜の方が近かったのでしょう。少なくともそのような意識があったものと思われます。

 人生で重要な「貧しさ」
(1)清貧の思想
 現代の私たちは、経済的な豊かさが人間生活には必要であると思っています。限界はあるにしても、その豊かさが人間に幸せをもたらすと思っています。しかし恵信尼さまのころは明確に異なっていたのです。特に知識人の間においては、貧しさこそ人間生活を豊かにすると考えていました。貧しければ財産を奪われることもなく、人間関係が平和に過ごせる。遺産相続などにおいて、いたずらに争うこともなくなる。財産が少ししかなければ、自堕落な生活をすることなく、心は清らかに暮らせる。
 「清貧」というのは「清く貧しく」という意味でしょうが、「貧しいことは清いことだ」という意味にもなろうかと私は考えています。
 60歳代以降の親鸞聖人も、関東から移り住んだ越後時代の恵信尼さまも貧しい生活でした。その様子はあとで見ていきますが、私たちから見ればお気の毒だったと思います。しかし当時の社会では現代の私たちとは異なる見方があったと思うべきなのです。
 のちに室町時代の蓮如さんが若いころは貧しかった、生活が大変だったとその息子が記録に残しています。確かに貧しかったのでしょう。でも日本では、経済的に貧しいことより豊かな方が人間生活を幸せにすると考え方が変わってしまった時期がありました。それは15世紀半ばから後半でした。室町時代から戦国時代に移るころです。蓮如さんの子どもの代には、経済的な豊かさを競って獲得しようという時代になってしまっていたのです。ですから、お父さんの蓮如さんの若いころを振り返って、ほんとうに気の毒だったなあ、という感想をもらしたのです。若いころの蓮如さんに尋ねれば、また別の感想を述べたであろうと思われます。

(2)さびしさ、わびしさ
 現代の私たちは、家族がいなければさびしい、友人がいなければさびしい、と感じます。またお金がなくて物を買うことができなければわびしい、と感じます。平安時代や鎌倉時代でもそうであったろうとは思うのですが、豊かさ・貧しさと同様、この時代の人たちには異なった感想があったのです。
 歌僧として有名な西行は次のような和歌を詠んでいます。

  とふ人も 思ひ絶へたる 山里の
    さびしさなくば すみ憂からまし

「私の友人も、もう私のことを忘れてしまったでしょうし、私を訪ねてみようとは思いもしないでしょう。都を離れた私の山里暮らしは、それほど長くなってしまいました。とてもさびしいです。でもこのような状況では、「さびしさ」がなければとてもこんな所に住み続けることはできないでしょう」。複雑な内容ですが、西行は「さびしさがなければ住んでいられない」「さびしさが欲しい」「さびしくなりたい」といっているのです。
 また西行の次の和歌もあります。

  さびしさに 堪へたる人の またもあれな
    庵ならべん 冬の山里

「さびしさに堪え切った人にきてもらいたいのです。隣り合わせに住んで一緒に修行したいと望んでいます。このさびしい冬の山里で」。西行は「さびしさ」を精神的な高みにまで昇華させたいのです。彼はまだそれができていないのでしょう。
 さて、このような雰囲気の鎌倉時代のなかで、恵信尼さまの越後での暮らしはどうだったでしょうか。

四、越後で暮らす恵信尼さま
   関東からの親鸞聖人の帰京と恵信尼さま
  @ 帰京の理由
 『本願寺聖人伝絵』下末に、

  聖人、東関の堺を出でて、花城の路におもむきましましけり。 
                          (『真宗聖典734頁』)

とあります。聖人は60歳のころ、京都に帰られました。京都に帰られた理由については、昔からいろいろな説があります。 東国における念仏弾圧を避けてとか、 法然聖人のお手紙などをまとめて『西方指南抄』を編むためとか、 『教行信証』の完成のためとか、あるいは 還暦近くなって故郷に帰りたくなったから、などという説もあります。
  説は七百年の大遠忌のころに有力でした。でも、東国に多くの門弟を残して1人だけ親鸞聖人が逃げていかれるなどとは考えられません。それにいわゆる念仏弾圧は京都の朝廷から始まったのです。その依頼を受けて幕府でも行なったのです。弾圧を避けるために弾圧のもとへ突入していくのもおかしなものです。 は聖人自筆の『西方指南抄』で現在残っているのは聖人84歳のときのものです。帰京から20年経っています。それを目的に帰京されたにしてはあまりに年月がかかりすぎていないか、と私は思っています。 説も明確に根拠があるものではありません。確かに聖人は、帰京後仁和寺で見たのではないかという中国から新輸入の書物を、『教行信証』のなかに引用されています。しかし必要があれば部分的に改訂するのは現代の私たちだって同じです。帰京の目的の根拠にするのはむずかしいと思います。
 現代の私たちは忘れていることがあります。当時の寿命は40歳そこそこだったのです。それは親鸞聖人にもまわりの人たちにも分かっていたはずです。60歳にもなったらあと何年の寿命があるか。その聖人はその年齢で京都に帰られたのです。何々をしようという大きな目標が立てられたでしょうか。90歳まで長生きするなんて誰も思わなかったはずです。でも後世の私たちは帰京後30年の寿命を保ったということを知っていますから、「30年か、親鸞聖人はどういう目的でその30年を使おうとされたのだろうか」などと考えてしまうのです。
 帰京にあたって特に大きな目的はなかった、と私は思います。先ほど述べたなかの 説、つまり還暦になって望郷の念やみがたく、ということだったのではないでしょうか。「親鸞聖人のような立派な方だから、何か世のなかのためになるような目的があったに違いない」と思わなくてもよい、と思うのです。

(2)恵信尼さまはやがて京都へ
 次に問題になることは、親鸞聖人の帰京にあたり、恵信尼さまと子どもさんたちはどうされたかということです。従来から、 家族は親鸞聖人と一緒に帰京されたという説と、 聖人は1人で帰京されたという説とがありました。 説ですと、恵信尼さまと子どもさんたちはやがて京都から越後へ下られた、ということになります。 説ですと、関東から直接越後へ移られたということになります。茨城県の笠間市稲田付近には、恵信尼さまは亡くなるまで稲田におられたという説も伝えられてきています。しかしこの説は歴史的観点から見たときには無理だろうと思います。
  説と 説とでは、 説の方がずっと有力でした。「ご家族は必ずやご一緒に京都へ帰られたに違いない」「別れ別れになって家族のまとまりを壊す必要がどこにあるのか」。このような書き方で 説が主張されてきました。
 しかし、と私は思うのです。夫婦子ども合わせて七人、いったい京都の誰が面倒を見てくれるのか。恵信尼さまの実家三善家も代が変わり、兄弟か甥が主人になっているでしょう。いくら貴族とはいっても、20数年会わなかった親戚一家がなだれこんでくることを喜んだでしょうか。
 それに、親鸞聖人にとっては京都は故郷でしょうが、子どもたちはそうではないことを考えてあげなければなりません。小黒女房は20歳代のなかば以降、すでに結婚し、子どももいて夫と生活していると考えるのが妥当です。信蓮房だって、20歳代前半です。何らかの仕事をし、妻子がいてもおかしくありません。有房と高野禅尼にしたってそうです。「ご家族は必ずやご一緒に京都へ帰られたに違いない」という考えは、では聖人のために子どもたちはその生活を根こそぎ捨てていくべきだ、必ずそうしたということでしょうか。
 そのような子どもたちは京都へ行って何をしようというのでしょうか。何ができるでしょうか。親鸞聖人は還暦のころ、あと何年の寿命があるか分からないのです。そしてまた聖人は京都に有力な俗世間的ツテがあったとは考えられません。20年近く関東に住み、そこに根ざすことができているのに、子どもたち、そして恵信尼さまの将来はどうなるのでしょうか。私たちが自分たち自身の問題として考えれば、一家揃って京都へ行くというのは無理だということが分かります。家族は京都へ「帰る」のではなく、「行く」ということになるのです。
 でも親鸞聖人は京都へ「帰りたかった」のです。「それほどいうのなら、じゃ行ってらっしゃい」というのが恵信尼さまと子どもさんたちの反応だったのではないでしょうか。必ず夫の考えに従わなければならないという時代ではなかったのです。

 越後に住む恵信尼さま
(1)越後での生活
 親鸞聖人は1人で京都へ向かい、やがて恵信尼さまは越後に移り住みます。その理由の第1は、越後に領地があったからでしょう。毎年年貢が送られてきていたでしょうが、やはり現地に住んだ方が便利です。確実に、すみやかに年貢が手に入ります。私は、親鸞聖人が関東におられるときから、子どもの誰かが領主恵信尼さまの代官として越後に移り住んでいた可能性があると考えています。小黒女房またはその夫、あるいは信蓮房らです。「小黒」が現在の上越市内の地名であることは分かっています。信蓮房が通称として呼ばれている「栗沢」も同様です。「小黒女房」というのは、「小黒」を名字とする男性の妻、あるいは「小黒」に住む身分のある女性という意味です。鎌倉時代には後者の意味が強いと思われます。その場合、結婚しているかどうかは無関係です。
 結局、末子の覚信尼さんだけを除いて、子どもたちはすべて越後に住むことになりました。現存の恵信尼さまのお手紙には出てこなくて、系図にだけに出てくる高野禅尼という女性もいます。高野も、やはり上越市内の地名です。益方も同様です。
 恵信尼さまは、小黒女房・栗沢・益方・高野禅尼という4人の子どもを自分のまわりに配置する形で、一家の長として生活をされたのです。しかしその暮らしは楽なものではなかったようです。恵信尼さまのお手紙の第3通に、次のようにあります。

  又、この国は、昨年の作物、殊に損じ給いて、あさましき事にて、おおかた命生くべ  しともおぼえず候う中に、所ども変わり候ぬ。一所ならず、益方と申し、又おおかたは頼みて候う人の領ども、みなかように候うえ、おおかたの世間も損じて候間、中々、とかく申し候う也。(中略)身一人にて候わねば、これらがあるいは親も候はぬ小黒の女房の女子、男子、これに候ううえ、益方が子どもも、ただこれにこそ候えば、何となく、母めきたるようにてこそ候え。いずれも命もありがたきようにてこそおぼえ候え。                (『真宗聖典』617〜618頁)

「また、この越後国は、昨年の田畑の作物が、特に不作で、ひどいことになって、これはほとんど餓死してしまうのではないかと思っている状況のなかで、住居を引っ越すことになりました。私の所だけではなく、有房もそうですし、また他の子どもや信頼する人たちの領地もこんな状況で、そのうえ世間一般でもひどい不作なので、何ともいいようがありません。(中略)私は一人で住んでいるのではなくて、親が亡くなってしまった小黒女房の女の子と男の子も一緒にいるうえ、有房の子どもたちも、皆ここにいますので、何となく、母親になったような気分です。食料が足りないので皆生き延びていくことむずかしいと心配しています」。
 恵信尼さまは子どもたちの生活に気を配っているだけでなく、孫の面倒までみているのです。小黒女房の子どもたちについては前に述べましたが、当時の慣例から判断して、女「子」・男「子」とあれば、15、6歳以下です。もっとも、朝廷の規則では15歳、女性は13歳になったら結婚してよいと発育には個人差があるし、また現実にはさまざまな例あったと思われます。
 「益方が子ども」とあるからには、益方さんの2人以上の子どもが恵信尼の世話になっていたことになります。「ども」というのは、当時は必ず複数を表わすときに使ったことばです。現代では「子ども」といっても1人のことが普通です。複数なら「子どもたち」ということになります。
 恵信尼さまのお手紙の第七通にも、

  昨年の飢饉に、何も、益方のと、これのと、何となく幼きものども、上下数多候うを、殺さじとし候いしほどに、ものも着ずなりて候う、(『真宗聖典』620頁)

「これのと」というのは、「私のと」という意味ですから、小黒女房の子どもたちは恵信尼さまと同一の所帯にいるということで、益方の子どもたちは預かっているという認識だったようです。
 親鸞聖人が亡くなったとき、益方は臨終の枕元に寄り添っていました。それは恵信尼さまのお手紙の第3通に、

  益方も御臨終にあいまいらせて候いける。     (『真宗聖典』618頁)

とあることでわかります。彼は日野有房と名のって俗人生活を送っていたようです。仕事の関係からか越後と京都を往復していた気配もあります。益方は、飢饉の状態のなかで、子どもを母親に預けていたのでしょう。益方の妻やその他の家族も預けていたのか、それは分かりません。
 「ありがたき」というのは、「有り難い」と漢字を当てはめることができます。現代のように、「うれしい・感謝する」といったような感情を伴う状態ではありません。「有ることが困難である」という意味です。ですから「命もありがたき」といえば、「命があるのは困難」すなわち「生きていくのが難しい」という意味だったのです。
 恵信尼さまは「何となく、母めきたるようにてこそ候え」とうれしそうです。毎日の苦しい生活を乗り切っておられる様子が察せられます。

(2)親鸞聖人との連絡は?
 京都の親鸞聖人は、最後には末娘の覚信尼さんとの同居でした。覚信尼さんが父親の面倒を見ていたのです。覚信尼さんの息子の覚恵さんはすでに20代後半と推定されますから、さる寺院に入って修行していたはずです。親鸞聖人のことについて、覚信尼さんからの連絡は時々来ていたはずです。また、益方は越後と京都を往復していたと私は考えています。往復というほどでなくても、時には京都へ行ける環境だったと推定しています。益方からも聖人の様子は伝えられたでしょう。
 では、恵信尼さまは直接親鸞聖人と手紙の連絡を取っておられたかどうか。可能性は大きいとは思いますけれども、残念ながらまだまったく分かりません。

 恵信尼さまの信仰
(1)念仏信仰
 恵信尼さまが実家の念仏信仰、それから親鸞聖人の信仰を受けて、熱心な念仏信仰を持っておられたのは間違いありません。そして恵信尼さまのお手紙第10通に、次のように記されていることが注目されます。恵信尼さま87歳です。

  わが身は極楽へただ今に参り候わんずれ。なに事も暗からずみそなわしまいらすべく  候えば、かまえて御念仏申させ給いて、極楽へ参り合わせ給うべし。なおなお、極楽へ参り合いまいらせ候わんずれば、なにごとも暗からずこそ候わんずれ。
                          (『真宗聖典』624頁)

「私は、もう間もなく極楽へ往生するでしょう。どんなことも阿弥陀様ははっきりとご覧になるでしょうから、あなたもよく心にかけてお念仏を称えて、極楽でお目にかかりましょう。なおまた、極楽でお目にかかることができたら、そこはどんなことも暗くはないところ思っています」。
 「なにごとも暗からずこそ候わんずれ」というのが恵信尼さまの極楽浄土観でした。暗くはなく、明るいところです。恵信尼さまがこのお手紙を書いているのは、夜中でした。その理由は、京都へ行くという人がいるということが、急にわかったからです。それも翌朝暗いうちに出発するということなので、とにかく持参してもらおうと暗やみに近いなかを必死に書いているのです。

  なにごとも申したき事多く候えども、あか月、便の候うよし申し候えば、夜書き候え  ば、よに暗く候いて、よも御覧じ得候わじとて、止め候いぬ。(中略)あまりに暗く候いて、いかように書き候うやらん、よも判じ得候わじ。 
                          (『真宗聖典』625頁)

灯りが十分にあったとは思えません。月明かり、星明かりのもとで書き綴ったのではないでしょうか。
 そのような状況のなかで書いたとしても、「なにごとも暗からずこそ候わんずれ」とあるのは重いことばだと私は思うのです。鎌倉時代の農村の女性の極楽浄土観として注目すべきではないか、と思います。極楽に高望みしない。現実よりも少しよければありがたい。そのような願いが伝わってくるような気がするのです。

(2)五重の石塔
 恵信尼さまの極楽浄土観については、従来はほとんど注目されてきませんでした。それに比べると恵信尼さまが強く望んだ五重の石塔の方は、多少の困惑とともに、どのように受け取ったらよいのか議論がなされてきました。五重の石塔については、恵信尼さまのお手紙の第7通と第8通に示されています。まず第7通から見てみましょう。

  今年はさる事と思いきりてそうらえば、生きて候う時、卒都婆を建ててみ候わばやと  て、五重に候う石の塔を、丈七尺にあつらえて候えば、塔師、造ると申し候えば、いできて候わんに従いて、建ててみばやと思い候えども(以下略)、
                          (『真宗聖典』620頁)

「今年は寿命が尽きると覚悟しましたので、生きている間に、卒塔婆を建ててみたいと思いましたので、五重の石塔を、高さ7尺で設計して依頼したところ、石塔を造る石工が、造りましょうといいましたので、できあがったら、実際に建ててみたいと思いましたが」とあります。文中の(以下略)の部分には、飢饉で資金が尽きたらしい様子が述べてあります。第八通には次のように記されています。

  今年は八十三になり候うが、昨年今年は死年と申し候えば、よろず常に申しうけたま  わりたく候えども、確かなる便りも候わず。さて、生きて候う時と思い候いて、五重に候う塔の、七尺に候う石の塔をあつらえて候えば、このほどは仕出だすべきよし申し候えば、今は所ども離れ候いて、下人ども皆逃げ失せ候いぬ。よろずたよりなく候えども、生きて候う時、建ててもみばやと思い候いて、このほど仕出だして候うなれば、これへ持つほどになりて候うと聞き候えば、いかにしても生きて候う時、建ててみばやと思い候えども、いかようにか候わんずらん。そのうちにもいかにもなり候わば子供も建て候えかしと思いて候う。       (『真宗聖典』621頁)

「今年は83歳になりました。私は昨年と今年は死に年なのだそうです。それでいつでもお手紙であなたの様子を伝えてほしいのですが、その手紙が確かに届く便もありません。さて、生きている間にと思って、五重の石塔、7尺の石塔を注文しましたたら、石工が造りますとのことでしたが、私は最近住所が変わり、下人たちも皆逃げ散ってしまいました。すべてに頼るべき存在がなくなってしまいましたが、生きている間に建ててみたいと望んでいますので、最近石工が作業を続けて、私の所へ持ってこれるほど完成に近づいたと聞きましたので、どのようにしても生きている間に、建ててみたいと思っていますが、経済的に苦しいし、どうなることでしょう。そのうちに私が亡くなったら子どもたちが建ててほしいものだと思っています」
 「五重の石塔」とは、五輪塔であったと考えられています。七尺というのはかなり大きな五輪塔です。それを恵信尼さまはどうしてもほしかったのです。
 このことについて論評する人の多くは、「あの親鸞聖人の奥さんが本心から五輪塔をほしがるはずはありません。なにせ親鸞聖人は念仏以外は否定されたし、五輪塔など聖人の信仰体系のなかには入るはずがないのです。恵信尼さまは誰か他の人のために建ててあげたいと思っているのでしょう」。
 しかし私たちは正しく見つめるべきことがあります。第1に、まだ真宗教団はできていないのです。教団としてこれを守るべきだという信仰体系はありません。第2に、妻は夫の考えのとおりにいきなければいけないという社会ではなかったことです。恵信尼さまが 1から10まで親鸞聖人の教えのとおりでなければいけないなんて、当時の誰も考えてはいないのです。恵信尼さまは、信仰の基本として熱心な念仏信仰をもっていらっしゃる。まずそれで十分ではないか、と私は思うのです。
 第四に、親鸞聖人は各地の宗教環境のなかでご自分の念仏信仰が受け入れられればよい、と考えておられたであろう、ということです。たとえば二十四輩第一の性信の横曽根門徒には真言宗の影が濃く、第2に真仏の高田門徒には善光寺信仰が、第3の鹿島門徒には鹿島明神の信仰の影響が強いのです。門徒たちは、それぞれ、そのなかで親鸞聖人の信仰を受けとめて生きていたのです。越後の農村で、恐らくは五輪塔の色濃い地域で、恵信尼さまがその1つをどうしてもほしいとおっしゃったなら、認めてあげたらどうだろうか、と私は思います。現代の私たちの周囲を見てみましょう。念仏以外にまったく何もないでしょうか。狭く、狭く考えていったら、親鸞聖人の教えはさまざまな生活を営む多種多様な人びとの生きる導きになることがむずかしくなるのではないでしょうか。

 おわりに

 2日間にわたって私の話をご清聴くださり、どうもありがとうございました。「寺をひらく 私をひらく」のテーマに沿って話を進めてきたつもりです。昨日は「私をひらく」すなわち自分自身について、本日は「寺をひらく」すなわち周囲の人びととのことにおいてでした。具体的なお寺の運営については、私のよく口を出せるところではありません。でも坊守さんたちが努力されていることは、必ず周囲の人たちにも理解されることと思います。
 私もさらに研鑽を重ねていきたいと思います。ありがとうございました。

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