2007年度三条教区「住職研修会」in佐渡
「何故、同朋会運動が必要なのか」
−清沢・曽我・金子ら先達に学ぶ− |
大谷大学准教授
水島 見一 氏 |
ただいまご紹介にあずかりました、大谷大学の水島と申します。六年ほど前までは京都の大谷高校で教員をしておりましたが、そのあと大谷大学に変わるようにいわれまして現在に至ります。
5年間ほど大学でいろいろと勉強をしているわけですが、やはり高校生と大学生の違いというのがありまして、高校生は非常にこころが純白というか、汚れておりませんので、いろんな意味で真っ正直であるということですね。そういう時期でありまして、真っ正直に悩むし、真っ正直に喜ぶし、真っ正直にものも言うし、真っ正直にそういう態度もとるし、これがまあ、だいたい高校生と。
大学生になりますと、かなり大人になりますから、いくら大学生はまだ子どもだと言いましても、やはり大学生は大人でありまして、先生に対して不愉快なことは言わないとか、あるいはこういうことを言ったら失礼になるからとか、そんなことは大学生になればわかってくるわけで、一切言わないわけです。
高校生はそうではなくて、例えば授業がつまらなかったら、これは寝てしまうとか、授業が全然興味がないのであれば内職するとか、それ相当の反応を示すわけです。授業中に寝たりしますと、教員としては非常に授業に負けたと言いますか、生徒に対して引きつけられる授業ができなかったということで大いに悩むわけであります。
大学がいまさらになって「FD」(「Faculty Development」の略称/教員の授業内容や教育方法などの改善・向上を目的とした組織的な取組みの総称)ということで、大学の教員の教育力をアップするための研究会を開けということを言うわけでありますが、僕らから言わせれば、高校の教員の経験があるものから言わせますと、教育力をアップするのであれば高校や中学校の現場に立つとよろしいと。大学の先生の言うことが、いかに高校生や中学生、まして小学生に伝わらないかということが、これはもうすぐ顕著にわかるということを思うわけであります。
親鸞聖人がどういう方々を対象として浄土真宗を広められたかと言いますと、いわゆる越後に流罪になられたときがそれでありまして、群萠と言われる方々でした。
「屠沽の下類」(『真宗聖典』552頁)とか、あるいは「いし・かわら・つぶてのごとく」(『真宗聖典』553頁)とか、おっしゃるけれども、簡単に言いますと在家の側であります。
今は日本の社会は恵まれていますから、ある程度のレベルが維持されるということがありますが、鎌倉時代というのは、やはりその日を暮らすのに精いっぱいであった。したがって、大地を這うようにして生きていくという、こんな方々が越後にたくさんおられたところに、京都でにわか勉強をした親鸞聖人が35歳で越後に流されたというわけであります。これは親鸞聖人からしますと、京都で学んだ自分の勉強というものが通用しないということに、真っ先にぶつかったんだろうということを思うわけであります。
先ほどの話に戻して言いますと、大学と高校の違いはそういうことでありまして、大学生は、ある程度の言葉を出せば、ある程度の反応が返ってくるけれども、高校生とか中学生には、ある程度の言葉を言っても返ってこないということがあるわけです。そんな意味からして、いかに真宗を広めるかという、このことの難しさと言いますか、あくまでも群萠と言われるような方々を浄土真宗は、ずっと門徒としていただいてきたわけでありますから、そんな方々にどういうかたちで仏道を伝えるのかと。こういうところに立った一つの大きな運動が、これこそ同朋会運動であったに違いないということを思うわけであります。
だから同朋会運動は決してお寺のご住職方の教養のための運動でも何もないし、またインテリのために仏教を文化的に伝えると、研修会として伝えるというものでもないし、やはり大地を這うようにして生きている、こんにちで言いますとサラリーマンや、自営の人、農業の人とか、漁業の人とか、そのような人たちに、どのようにして親鸞の教えを伝えるかということが、同朋会運動の本筋であったに違いないと思うわけであります。
したがいまして、今一度自分自身を、衣を着けているものとしても、もう一度スタンスを親鸞聖人に帰して確かめてみると。こういうことが、今のこの時期にこそ必要でないのかなと思うわけでございます。
"親鸞聖人にすぐに帰る"と、こういうことはもちろんありますけれども、親鸞聖人にすぐに帰るには、実はなかなか難しいことがあります。というのは鎌倉時代、蓮如さんが出られたあとから江戸幕府のなかに浄土真宗が入ったわけですね。そうしますと、幕府の統治機関の一つとして浄土真宗が用いられたということであります。
だから浄土真宗は、もう群萠の大地から遊離した浄土真宗になったと。こういう名残はこんにちもたくさんあるでしょう。いわゆる格が上になったわけですね。だからいわゆる石持方と言われる人たち。
そうしますと、今は『教行信証』と言いまして、私たちは『真宗聖典』をすぐいただいて、『教行信証』を読むことができるわけでありますけれども、昔、江戸時代は『教行信証』はすぐに読めなかった。直接読めるものではなかたわけです。存覚という方の書かれた『六要鈔』というものがありますから、それをとおして読みなさいとか。それからもっと時間も制限がありまして、詳しいことはすぐ忘れますけれども、たしか午前中なら午前中の時間が決まっているのです。「何日・何曜日」という感じですね。時間はこの時間に読みなさいという。それほどまでに読むには権威がありまして、そう簡単に紐解くことができなかったと。
こういうわけでありまして、いきなり親鸞聖人がわれわれのほうに入るかと言いますと、われわれのほうに入るには、ある程度の権威付けられた浄土真宗がわれわれのほうに入ってきている可能性もあるわけであります。
そうしますと権威付けられました浄土真宗というものは、これは江戸であれば「宗学」(「江戸宗学」)。ところが、これとよく似た言葉で「教学」と言って、われわれは「教学」ということを大事にしますけれども、「教学」という言葉が往々にして、今言ったように権威付けられた「教学」になって、われわれのほうに来ている場合があるわけであります。
これに真っ先に全身で反応を示された方が清沢満之という先生であります。清沢満之先生は明治時代に出られまして、近代人としての教養を育英教校と東大で学ばれて、いわゆる近代的な「自我」というものをきちんと持たれて、仏教を学ぶということになられました。そうしますと、浄土真宗の了解の仕方が、宗学によって権威付けられたものでしかないのではないかということを清沢満之先生は実感されたわけであります。
それにつきましては、このテキスト(『大谷派なる宗教的精神』)の中にも随所にそういうことが出てきておりますけれども、清沢満之先生は『教界時言』をもって宗門改革運動をおこなわれましたけれども、詳しくはその『教界時言』のなかに、もうつらつらとそういうことが書きつづられているわけであります。そんな部分というのは、こんにち清沢満之先生をわれわれがいただいたということは、極めて意味があるということになるわけであります。
そのときに清沢満之先生が宗門の危機をこころから憂いておっしゃった言葉が、「大谷派なる宗門は、大谷派なる宗教的精神の在する所に在り」(『教界時言』/清沢満之全集四292頁)。つまり「大谷派宗門はどこにあるんだ」というわけです。当時「蛤御門の変」によって両堂(御影堂・阿弥陀堂)が消失していたわけでありましたけれども、そこに両堂が再建なったと。後ろに年表がございますけれども、その年表をご覧いただければ、明治28(1895)年に両堂が落慶しております。10年前の1885年にその建設を成し遂げるために「相続講」というものもはじまっております。
相続講というものは、まさに両堂を再建するためにはじまったものでありまして、この両堂を再建することによって、ようやく大谷派が世間に対して胸を張ると言いますか、世間に対してようやく存在感を示すことができたというようなことになるわけであります。こういうことが清沢満之先生が出られたころの宗門であったわけであります。
ところがテキストの8頁を見ますと、いわゆる宗学というものについて、「然れども」と書いてあって、その研究はというのは、当時の教学です。
当時の教学は「大率煩瑣的穿鑿に止まり」と、えらい細かいことをよく知っているではないかというわけです。質問したら、みんな細かいことに対して、よく答えるのでないかというような。ところが細かいことは答えるけれども、そこには宗教的な生命がないではないかということですね。
だから「大率煩瑣的穿鑿に止まり、其創見として観るべきもの甚だ罕なり」と、ほとんどないのです。創見というのは自らのところからつくり出していくものはほとんどないと。「特に其実行的方面に至りては」というのは実践とかなんとかと、今ボランティア的なようなものがわれわれの印象として浮かぶかもしれませんけれども、そういうものでなくて、本当に仏教の要は「信心」でしょう。仏教の要は信心、信心を得たと言って喜んでいるものがいないと、こういうことです。
だから「特に其実行的方面に至りては漸く落莫の観を呈せり」と、もう落莫の観であり、「然れども衰窮まりて盛に向ふは事物変遷の常数なり、今や宗教の煩瑣的研究は漸く世人の厭ふ所となり」と。
だからもう明治時代になってきますと、そういう江戸宗学、浄土真宗、東本願寺が胸をはって、枳殻邸とかでも、そういうことをやっていたということでありますけれども、そういうようなことは世人、世の一般の人は厭うところになったと。もうそういうものには感銘しなくなってきていると。
「其実行的方面に向て歩を進めんとするの傾向は、教界諸般の現象に於て歴々其徴候を現はせり」(「仏教者蓋自重乎」『教界時言』十五号)
明治時代というのは富国強兵、殖産興業と言われる時代であります。近代化ということで世間が揺れ動いているわけですよ。そこに大谷派のお坊さんだけは、旧態依然としたところに座って細かい研究をしていると。いったいそんなことをしても何になっているかと、浄土真宗は生きているかと。こういうことが明治時代のときに世間から言われたと。では、「こんにちは、どうですか」ということになりますね。
そういってみれば、もうこれはみなさま方よく耳にされたことだろうと思いますけれども、オウムの若者が言ったわけです。「既成教団がまちの風景に過ぎない」と。お寺の伽藍があるけれど、それはまちの風景に過ぎないと、こんにちそういうことを言われているわけです。わが大谷派宗門も、まちの風景にしか過ぎないと。なんら手を差し伸べるところはない。
ところが最近は下手に手を差し伸べますので、これもいかがなものだろうかということは私自身思いますけれども、例えばお寺の本堂を老人の健康施設に開放するとか、あるいは小劇場にするとか、文化人類学の上田紀行という人が総合テレビでやっていましたけれども、あれは寺の繁昌かもしれないけれども、信心の繁昌でないでしょうね。
あれは、寺に人は来るかもしれないけれど、しかし、われわれの教えは一人万人と、こういう言い方があるのですよ。一人万人と。どういうことかと言いますと、人間が万人集まったとしても無意味でしょう。一人仏教の信心に開けたものがおれば、それは万人に値するというわけです。
これは蓮如上人がそう言っておられるでしょう。「人がたくさん集まるのは寺の仏教の繁昌ではないと。信心を得た人がいるということが仏教の繁昌だ」(『真宗聖典』877頁)と。江戸のご講師なんか、そういうことに責任を感じておられますね。だからこうして、門徒を見て、「おまえの門徒いくつあるのだ」と。
ちょっと僕は正確の言葉は全然覚えがないですが、このような言葉です。例えば50軒あるといったら「そうかと、住職が一生に一人ぐらいです、信心を得させることができるのは」。そうしたら、50回生まれ変わらないとあかんなというわけです。
浄土真宗はそういう仕事です。寺にお金がたまって繁昌する。万人集まったら繁昌する。株式会社のようなお寺も都会に行けばありますけれども、寺の繁昌、それは金は入るかもしれないけれど、幼稚園も経営し、あれも経営し、そんなのがありますけれどね。
仏法の繁昌でなければだめなんです。ところが私のようなことを言っていることを実行したお坊さんたちが、われわれの先達としてたくさんおられたということは、注目しなければならないことであります。
とにかく清沢満之先生は、もう江戸時代から受け継がれた当時の教学は死んでしまっていると。こういうところに教団改革運動ということがおこなわれることになったわけであります。
清沢満之先生は本当に人間に響き渡る仏法というものは、どういうところにあるのかと、骨身を削って顕かにされたわけであります。
われわれ大谷派教団は清沢満之先生をいただいているわけです。昭和37年には創価学会の勢力がありましたから、他の既成教団は大谷派の同朋会運動のまねをしました。ところが、他派は大谷派の取った同朋会運動の方法論を取って、門徒を抱えこもうとしたと、こんなところでしょう。
特に集団就職で都会に来る若者は人間喪失に陥っている。そういう都会に来る若者に真っ先にうまくアプローチしたのが創価学会です。そういう意味では先見の明がありますね。いわゆる経済的な市場調査みたいなものが、ちゃんと進んでいたと思います。だいたい既成教団はそこらへんがのんびりしていますね。そういうところで慌てふためいた。それが昭和37年であります。
その出発点はどこにあるかと言いますと、清沢満之先生までわれわれはさかのぼらなければならない。逆に言いますと、清沢満之先生が出られなかったら大谷派教団の同朋会運動は起こってなかったとなるわけです。そうしたら、清沢満之先生が親鸞に戻ろうということを叫ばれた。清沢満之先生を通さずに親鸞に戻ろうとしたときには、われわれは親鸞に戻るための勉強をしたいと思うでしょう。
そうしますと親鸞に戻るための勉強というのは、教学です。その教学が、清沢満之先生という肉体を通さなかったら、江戸宗学のような細かい煩瑣的な勉強をしたらいいと思うのです。
だから、えらい細かいことをやっている人に、何でそんなことをやっているのと質問しますと、おそらくあたふたします。なぜかと言いますと、例えば論文を書いても、論文のなかに「いのち」がないものでありますから、答えられない。そんなことが、下手すればこんにち、そのような状況に陥りつつあるということです。
だから、われわれが清沢満之先生を学ばなければならないかということは、そういう意味です。親鸞に帰るということが江戸宗学に帰るということになるおそれもある。そうではなくて、親鸞は弥陀の本願に帰られた人ですから、親鸞に帰るということは弥陀の本願に帰るのである。そういうことを清沢満之先生は明らかにされたのです。清沢満之先生が出られたということは、非常に大きな意味がありまして、教学に生命を通わせたのが清沢満之先生ですね。その生命つまり弥陀の本願を見なければ、これはまた元へ戻る。
生命が通うということはどういうことかと。私は高校の教員をしておりましたから、そういうことを痛感します。例えば、「静かにしましょう」と。こういうことをA先生が言うのとB先生が言うのと違うのです。A先生が、静かにしましょうと言ったとしても生徒たちが聞かない。そんなもの全然聞くかという感じです。ところが同じ静かにしましょうを、次のB先生が言ったら、生徒たちすぐ聞くことがあります。
だから言葉だけでは、通じるものと通じないものがあるのです。言葉には限界がある。同じ言葉を言っても通じる場合と、通じない場合があります。何故かと。そうしたら、説いている人の問題です。言葉をしゃべっている人の問題です。こういう厳しいものが教育現場にあるのです。
だから門徒さんが迷っているとしたら、住職に責任がある。住職が勉強しないからかと、そうではない。清沢満之先生から言わせれば、「住職が仏教に生きていないからや」と、こういうことになるわけです。住職が仏教に生きてなければ、いくら勉強会を開いたとしても物知りは生まれても宗教的生命はそこから生まれてこないと。そういうところに同朋会運動の願いというものが込められていたということを思うわけであります。
したがいまして、清沢満之先生が出られたことによって、宗教的生命というものがもう一度よみがえったということが、われわれにとっては非常にありがたいわけであります。そんな意味において、大谷派からは非常に宗教的生命を持たれた方が次から次からと出られる。
同朋会運動と言いますと、訓覇信雄という方ですね。訓覇信雄先生は松原祐善先生と無二の友だちです。また、安田理深先生を常に招いて金蔵寺で、ご自坊で夏の講習会をやっておられたし、訓覇先生は曽我、金子を自分の教学的な師として仰ぐ。しかし、訓覇信雄と言いますと、これは絶対に忘れたらいけない方として高光大船がおられる。
全体の構図を書きますね。
<教学派>清沢満之→曽我量深→金子大榮→安田理深→松原祐善
<生活派>清沢満之→暁烏敏・高光大船・藤原鉄乗→訓覇信雄
上を教学派と言います。これが一つですね。下は、同じく清沢満之先生を出発点とします。だから清沢門下から多くの人が育ったのです。暁烏敏。この方もおそらくご存じだろうと思います。高光大船。藤原鉄乗。訓覇信雄。これらの人をもって生活派と言うのです。こちら(曽我量深・金子大榮・安田理深・松原祐善)を教学派とこう言うのです。
この三人(暁烏・高光・藤原)を合わせて「加賀の三羽烏」と言います。訓覇先生は一番直接的には高光大船によって、仏道に目覚めたのです。どういうかたちで仏道に目覚めたかと言いますと、「仏教は考えてわかるものではない」と。
われわれはものを考えてわかろうとするでしょう。でも、仏教は考えてわかるものでないのです。われわれは勉強して、ものを考えるでしょう。仏教を考えてわかろうとする。これが間違っているというわけです。仏教は考えてわかるものではない。
なぜかと言いますと、仏教の智慧は「無分別智」だからです。だから仏教は考えてわかるものではないのです。考えてわかるものであれば、世の中にいっぱいわかった人がおります。頭のいい人ほど仏教がわかる。ところが頭のいい人ほど仏教がわからないということもある。だから訓覇先生は高光大船から、仏教は考えてわかるものでないということを徹底的に教えられた。それが引っかかるわけです。そこで悩むわけです。
訓覇先生は仏教は無分別智であると一応は知っていたのです。しかし、わからないということで仏道に対して苦悩した。そうしたら、同じ悩んでいた「広瀬のおじいさん」がいたのです。広瀬のおじいさんが朝起きて、目を奧に引っ込ませて、「仏教はわからんな」と、「なんぼ考えてもわからん」と言ったらしいのです。そうしたら訓覇先生は横にそれを聞いていて、「何言うとるねん、仏教は考えてわかるもんかい」と。「仏教を考えてわかるもんかい」と思ったその自分の思いに、訓覇先生はひっくり返ったわけですよ。「ああ、そうやった。仏教は考えてわかるものでない」と。これでピンとくるのです。
仏教は考えてわかるものでないということは、頭ではわかるでしょう。ところがそれでは仏教はまだわかっていないわけです。ですから、仏教は人間のわかろうとする思いを超えたものである。わかる、わからんを超えたものである。では、どうしたらわかるか。こころが飛び上がるほどに喜んで、全身がそうやったとうなずくことで、わかるのです。ですから訓覇先生は、仏教は考えてわかるものでないということを、高光大船によって知らされ、回心したわけです。
訓覇先生は高光大船を非常に大事にされますね。今、同朋会運動のさまざまな方策がとられていますけれども、今ご本山に行かれて、同朋会館に行って、座談会をやられているけれども、あれは訓覇先生の金蔵寺でやっていたということだけれども、出発点は高光大船の寺でやっていたわけです。だから同朋会運動の原点は高光大船の夏の講習会にあるのです。
話しをもどしますが、群萠と本当に接したのが、こちら(生活派)の方々です。全部一住職です。一住職として在所を歩き、どこかのおばあちゃんがしゃがんで草を取っていると、高光大船は、その草を取っているおばあちゃんの横に座って、一緒にしゃがんで世間話をしているわけです。世間話を通して仏教を一歩一歩広めていった。
だから一つのお寺があって、そこの住職が回心すれば、そのお寺のある在所が仏教を喜ぶ在所になるのです。こういうことを高光大船がやっていたのでありますから、訓覇先生はそれを金蔵寺でもやろうとした。
それで昭和十年頃に、訓覇先生が自坊へ帰られて高光大船を呼んだわけです。すると高光大船は「おまえらみたいなものは、仏教なんかわかるような人間じゃない」と説教するものだから、若い連中は腹を立てたのです。腹を立てるだけ大したもので、われわれはおまえら仏教はわからないと言われたら、「ああそうか」と言うわけで、何かわかったような、わからないような、シュンと俯くのでありますけれど。彼らは怒ったわけです。それで高光大船にくってかかった。くってかかった途端に、くってかかったものが仏教に目覚めたわけです。仏教は考えてもわからない証拠です。こういう事実に訓覇先生の同朋会運動の確信があるのです。高光大船の北間の、あの小さな村が仏教でワッと湧き上がった。それと同じことが高光大船を呼んだ訓覇先生のところでもおこり、そして在所が僧伽となるのです。その実験があるものですから、訓覇先生は、それはやはり同朋会運動を起こすべきだと。
ただ同朋会運動は方法論に走ったものでありまして、特伝(特別伝道)をやったり、推進員を養成したとしても、それで仏教に目覚めるかといったら、そんなにいないです。本当は、訓覇先生自身は特伝について本心は反対だったと聞いています。信を獲るということを制度的に工夫してもどうなるものでもないと思われていたのだと思います。
訓覇先生の思いは、あこの住職が熱心だとわかったら、そこの住職の寺にお金を注ぎ込もうというわけです。同朋会です。私は研修会という言葉が嫌いでして、たとえば『大無量寿経』の研修会と言っても、『大無量寿経』の知識を得るだけではないか、と思ってしまうのです。研修会で仏教がわかるかと、といったら、わからないと思います。
だから私はそんなことではなくて、仏教に目覚める会、うまい説教を行ったらいいと思います。そういう目覚める場に訓覇先生は金を注ぎ込もうというわけです。
「大空から灰をまいてもだめだ」というわけです。大空から仏法をまくのです。仏法はこういうものだということで、みんな仏法がわかればいいということで、大空からフアッと仏法をまいてもだめだと言うのです。
そうでなくて、ここといったところに、灰をまく。あるいはいったんこぼれたコメをどうして集めるかというわけです。戦前戦後の話ですから、僕はたぶんそれはムシロの上の話だと思うのです。ムシロの上にコメをさらえたら、コメはバッと飛ぶでしょう。だから訓覇先生は、一粒一粒拾うところに仏教が繁昌するのだ、と。
私は仏法というのはそういうものだと思います。門徒さん一粒一粒、丁寧に目覚めさせていただく。そのために住職が目覚めなければならない。また共に目覚めるということもあります。
本当に仏教は目覚めないとだめなのですね。『大無量寿経』の講義、『教行信証』の講義と、いろいろ勉強したら頭でわかるわけでありますけれども、そんなことでは仏教にはなかなか目覚めないです。日々の生活において仏教に目覚めなければ、仏教は無意味です。
そういう目覚めさせることを加賀三羽烏がやられたのです。すなわち、加賀の三羽烏は人々が仏法に目覚めるようにと人々の心を耕すのです。その耕された心に曽我量深、金子大榮先生たちのおっしゃることばが染みこんで、ざっと深まるのです。曽我量深先生は「教学派ですね」と言ったら、怒ったというわけでしょう。違うというわけです。「俺は教学派じゃない。俺は生活派だ」と言われるのです。だから、生活以外にどこに仏教があるのかというわけです。
生活以外のどこに仏教がありますか。これを勘違いするのです。だから私は大学というところも怪しいところだと思っているのです。私は大学に対し勝手に思っていますけれど、「象牙の塔」でないですか。財前教授の小さいのがいっぱいいるだけです。財前教授ほど馬力があればいいかもしれないけれども、そこまでの馬力もない。こんな小型みたいなのがいっぱい、いろんな大学にいるわけです。
みんな象牙の塔の顔でないような顔をしているけれども、実際、象牙の塔の一員ではないか、と。だから私は自分で自分が嫌になるのです。本当に嫌になります。
だから私は最近、つくづくと私の先生の「地位、名誉、財産を愛する人は人を愛せない」という言葉が身に染みるのです。はじめ何気なく聞いていたけれども、これほどに重い言葉はないと思っています。地位、名誉、財産を愛する人は人を愛せないというが、おまえの本心はどうだ、と。人を愛せるか、と。
昨年の住職研修会に高藤法雄さんが講師として来られたでしょう。私は高藤さんからよくかわいがってもらいました。二、三年前、『宗報等複刻版』という宗派からの出版物があるのですが、私はあと一歩で買うことができなかった。そういうことを雑談でしゃべっていたら、「うちにあるのをあげるわ」と、すぐに送ってくださるのです。それから高木宏夫先生の全集も、送っていただいたりしました。そういう高藤さんを見ていまして、何よりも仏法大事、宗門大事だ、ということがよくわかります。私に本を送っていただいたのも、仏法大事の行事であると思います。その高藤さんが亡くなられまして非常に残念であります。仏法の一つの生きたかたちを伝えられる方でありました。あの方が叫ぶものだから、仏法というものがどういうものかということが、はっきりしたこともいっぱいあるのです。いま下手したら仏法は文化講座に流れているのです。さっき言ったように『大無量寿経』研修会など。ところが、そうでない、といって叫んだのは高藤さんです。「おまえら、念仏を称えているか」というわけです。朝起きてちゃんとお経を読んでいるかというわけです。これが仏法でしょう。こういうところを見ずにして、口ばかりとんがらかして、理屈しゃべっていてもしようがないということです。
浄土真宗というものは、いったい何かと。『教行信証』というのがありますけれども、『教行信証』のなかに一貫しているものは何かと言いますと「愚禿」の自覚です。例えば有名な「悲歎述壊」があるでしょう。『教行信証』「信巻」のところにありますね。
「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを恥ずべし、傷むべし、と。」(『真宗聖典』251頁)。なかなか痛烈でしょう。
「定聚の数に」と、「定聚の数」というのは、これは「正定聚」でありまして、一つの現生不退の地位に入ることを実は喜ばないと。聖典の251頁のところに親鸞聖人のご自釈がありまして、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に」。だからさせたくないのです。「入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」。
これは「真仏弟子」としての正直な告白でしょう。ところがわれわれは真の仏弟子と言いますと、「金剛心の行人」ということで、胸をはった真の仏弟子をわれわれは想像するのでありますけれども、親鸞聖人は「真仏弟子釈」を終えるにあたって、こういう告白をされて、その次のあとに「難治の機を説きて」(聖典251頁)と書いてある。そこで『涅槃経』をずっと引かれるのです。いわゆる「抑止文釈」というところに入るわけであります。
真の仏弟子とは、最後は「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」。これが真の仏弟子の正体というわけです。真の仏弟子の正体は何か、絶対に救われることのない「恥ずべし、傷むべし」という存在のことです。
その一点を忘れるわけです。したがって親鸞は生涯にわたって愚禿という言葉を尊ばれたのです。
「愚」の自覚というものは浄土真宗です。法然上人は浄土宗を立てられて、「ただ念仏」ということを言われました。専修念仏を世に高らかに表明されたのは、法然上人の歴史的なお仕事でありました。法然上人の歴史的お仕事は、専修念仏を世に高々と訴えたところにあったために弾圧を受けた。しかし、これは法然上人の歴史的な仕事であられるから、大いに尊敬を申し上げるわけです。
そして法然上人が出られたあとに親鸞聖人が出られた。今度、親鸞聖人は専修念仏の中身をどのようなかたちで群萠のほうへ下ろすかということを、越後へ行かれたところではっきりと自分の仕事として自覚されたに違いないと思うわけです。
群萠のために念仏をどういうかたちで下ろすかと言ったら、念仏だけであれば、これは危ないでしょう。というのは、下手をしたら「行」になります。念仏だけと言いますと、念仏を何遍と称えましょう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で念仏何回称えましょう。浄土宗でやっていますが、何回唱えるかが問題となりかねない。これは「行の念仏」です。
ところが浄土真宗は行でないのです。念仏は信となるのです。だから信に念仏の根拠を見出せと。信というのは何かと言いますと、「愚の自覚」です。愚の自覚に親鸞聖人は念仏の根拠を見出した。これは法然上人はわかっておられたですけれども、法然上人はここまで言わねばならない歴史的条件はなかった。聖道門に対して浄土門を打ち立てるところが法然上人の大きな仕事があって、だから法然上人がおられたからこそ、われわれの浄土真宗があるのです。
法然上人が専修念仏を立てられたことによって、浄土宗が寓宗から本宗になったと。そして親鸞聖人は、ただ念仏というその一見行にも取られがちな念仏を信にまで深めた。どういう信にまで深めたかと言いますと、愚の自覚というところまでの信にまで深めたということになる。これは真宗の要諦なのです。
なぜ親鸞聖人が浄土宗に対して浄土真宗とおっしゃったのか。なぜ浄土真宗といって、真実の真というものをおっしゃったのか。浄土の真宗と、浄土の真宗の真に込めた意味は何だろうというわけであります。
これは教学的に言えば、浄土真宗は『大無量寿経』によって立つものでありますから、『大無量寿経』の要点は本願成就となりますね。だから真というものは本願成就と言ったらいいと思うのです。
ところが本願成就でありますけれども、本願はどこに成就するのかという問題があるのです。本願はどこに成就するのかといったら、愚にしか成就しないのです。だから浄土真宗の真とは、愚の自覚なのでしょう。私にとれば、これにしかとらえようがないです。違うことをおっしゃる先生もおられると思います。私にとってはこれしかない。
われわれは信心をいただくと言うでしょう。信心をいただくという言葉は正しい言葉でありまして、信心は自分から起こすものでないわけでありますから、信心をいただくのです。どこからいただくかというと、如来からいただくのである。
そうしたら、如来は信心をすでに発しているわけです。「如来」という言葉が示すように、真実如はすでにわれわれのほうまで来ているわけです。真実はもうわれに来たりと。ところがそれに気が付かないわけです。だから真実がわれわれに来ているのだけれども、われわれはそれに気が付かない。どっちが悪いのか、如来よりいただいたわけでありますから、如来よりいただけるとこまで来ているのだけれども、いただくことを知らないのです。
だからわれわれの問題です。われわれは如来の仏智を本当はいただけるに違いない。けれどもわれわれはいただくことを知らない。だからいただけない。如来は悪くない。如来はおまえらを助けるぞというところまで来ている。
ここに自覚の問題があります。如来は助けようとしている。それに対して「ああそうやった」と。これが自覚です。真実が、「ああ、伝わったと」いうのが自覚です。だから「人間は死ぬぞ」と、これは如来の声です。「おまえは死ぬのだぞ」と言うのです。ところがわれわれは、「おまえ死ぬんだぞ」という真実を受け取れないのです。だから死ぬまで人生を頑張ってやっていこうとなる。「おまえ死ぬのだぞ」と、死ぬ間際の人に、言った人がおられるのです。
それは何とむごい、と思う人がいるかもしれませんけれども、「あんた、死ぬんだ」と言ったら、その人が喜んだのです。「そうや、俺は死ぬんだった」。真如のはたらきですから、死ぬということは。だからもう真如はわれに来ているわけです。だから信心をいただくとわれは何を知るのかと言ったら、死ぬことをいつも如来に背いている私でしょう。
いただいていなかった私だったと知らされるのです。だから愚を内容とする信です。「愚の自覚というのは、真宗のいのち」です。愚の自覚がなかったら真宗には生命力がない。真宗のいのちは愚に徹すると。これしかない。こんなはっきりしたことはない。助からないというところに助かっているわけです。助からないと知るのですから。だから万人が救われるのです。こういう道理になっているのです。勉強しても救われるものはないですね。
だから『教行信証』をどのように見ても、愚の自覚です。これを「機の深信」だ。清沢満之先生が出られたのは何かと言いますと、清沢満之先生や、曽我量深先生や、金子大榮先生や、安田理深先生や、松原祐善先生らがはっきりとされたことは何かと言いますと、機の深信の実践をはっきりされたということです。これが清沢満之先生の意義です。こんなに明確な群萌の仏道を明らかにしてくださったのは、清沢満之先生がおられたからです。清沢満之先生が出られたからこそ、「現生不退」ということがはっきりした。この娑婆においてこの救われない私はどうして救われるか、と言えば、間違いなく涅槃に至る道に立つことができたという、こんなはっきり出た仏道を清沢満之先生がおっしゃったわけであります。これは清沢満之が出なかったら不明瞭です。
とにかく清沢満之先生に出られたのは機の深信を実践された。そういうことになるわけです。では、機の深信というものは、いったいどういうものかということを具体的に見てみたいと思います。テキストの年表を見ますと333頁に1901年、明治34年10月、真宗大学が東京に開校、清沢満之初代学監と書いてありますね。大谷大学初代学長は清沢満之先生であったということです。その2年後に清沢満之先生は亡くなりますけれども、その2年後にはすでに清沢満之先生は大谷大学を去っておられるわけであります。
そして次の頁を見ますと1911年、10年後です。9月、真宗大学が真宗大谷大学と改称して京都に移転すると。これが大問題であったわけであります。清沢満之先生が東京に真宗大学を建てたということは、東京は文化の坩堝であると。世界中の文化の入るところであると、そこに真宗を出さなければならないと。もう一つは京都というような伝統的なところにいては、真宗のいのちがなくなると。こういうことであった。
それで東京に真宗大学を移した。東京の真宗大学に学生が集まった。東京の真宗大学は繁昌するのです。京都には伝統的な高倉学寮があるわけです。そこは全然人が集まらない。そうしますと東京の大学は黒字で、京都の大学(学寮)は赤字だとなります。だから一説によれば、東京の真宗大学は京都の本山の担保に入っていたというようなことも言われたりしますね。
もう一つ大きかったのは、東京の清沢満之の建てた真宗大学は異安心をつくる府であると。東京の真宗大学で学べば異安心を生み出す、だから一刻も早くつぶそうとなったわけであります。1911年に東京の真宗大学はなくなり、京都に戻ってきました。
曽我量深先生や、大谷大学の学問の基礎をつくられた佐々木月樵先生らは、清沢満之先生が建てた大学であるということで、そこに一所懸命に力を尽くしておられた。また金子先生も含めて清沢満之の門下の方々が多く力を尽くされていた。
高倉学寮のほうにも力のある方がおられたけれども、旧態依然とした力の発揮の仕方であったと。こんなことです。だから大家です。いわゆる大家がおられたと。こういうことですね。長いひげを生やした、いかにも大家であるという方がおられた。上杉文秀師とか。しかし、本当に時代にマッチした力が発揮できたのは曽我、金子、佐々木月樵とか、そういう方々であったわけです。
1911年に東京から京都に大学が移った。その10月に「曽我量深、越後に帰る」(テキスト334頁)と書いてあるでしょう。これが明治44年なのです。だから曽我量深先生にしますと、これはいわゆる落胆の越後帰りでありまして、決して胸をはった越後帰りではなかったわけであります。しばらく曽我量深先生は越後に帰られて筆を置かれるという、そんな時期もあったわけであります。
テキスト資料編の269頁をご覧ください。明治44年に郷里越後に帰られたと、こういうことでありました。どこを読んでもらってもいいのでありますけれども、例えば一番上の文を見ましょうか。これは『暴風駛雨』。「私共が自己の信念を告白する時、自己の至深の罪悪を信じ、同時に如来の至大の願力を信ずると云う」、こういうことはよく言うでしょう。「されど我等の此の告白は、果たして一点の偽りなき告白であろう乎」と言うのです。
われわれ、こういう袈裟を着けたものは商売的なこともありますので、「自己の至深の罪悪を信じ如来の至大の願力を信ずると云う」けれども、曽我先生はそれに対して、「一点の偽りなき告白であろう乎、此れを想ふ時誠に戦慄せざるを得ぬことである」と自己を問うのです。これを機の深信といいます。われわれの日常的な言葉でないのです。自分とおまえの関係で自己と対話する。おまえの言っていることは本当にそれ本心かと自分に言うのです。仏道では自分で自己を問わないといけないのです。
そして、「爾り、我等が自己の罪悪を感知することは事実である。而も我等は此れを想ふ時、直かに罪悪を感知する能感能信能知の自己の力を一層深く想はぬであろう乎。又我等が如来の願力を信ずるは、全くの虚偽ではない、而も此の如来を想ふ時、直下一転して、此如来を信じて能信能帰能順の自己の力を一層深く執着せぬであろう乎」と。
だから自己に執着するのですよ。われわれの最強の我執は何だと思いますか。ものが欲しいなんて、そんなのはかわいらしい我執です。そうでなくて、"仏教をわかりたい"というのが最強の我執です。
私なんか本当に「仏教がわからぬからわかりたい」ということを言っていたら、ある先生が、「その仏教がわかりたいと思うこころが難関だ。なくなったらいいのにな」ということをおっしゃるわけです。
ところが最強の自我まで気づいたらいいけど、なかなか最強の自我までいかなくて我執に気づいたぞ、という我執で満足していることもありまして、そのことを曽我量深先生はこのように言われる。
それから例えばテキスト269頁の下の段を見ますと、それは金子大榮先生に宛てた手紙です。「さて自己を顧みれば一も大兄を激励するの資格はない。過ぐる一過年に自分は何をした乎」と。だから越後へ帰ってから「自分は昨年四月以来一文も草したこともない。誠に哀れ果てなき体たらくではない乎。特に田舎の人となつて以来自分は全く死人である。今にして大兄の過去満七ケ年の努力に対して満腔の尊敬を捧げるを得ない。嗚呼自分はかくして葬られて仕舞ふ乎。今後師友の提撕に依よりて一歩づゝ進んで行きたいと思ふ」。
もう死人であると思われるのです。苦悩のどん底です。その次の頁を見ますと、今度はまた同じく明治45年ですね。「自分は昨年十月四日にいよいよ郷里北越に一野草となり終わりた」ということで、田舎に帰った自分のことを言っておられる。それからしばらく行を飛びまして、後ろから5、6行目を見ますと、「嗚呼、自分は従来口には愚痴と云い、悪人と云ふと雖ども、心には慥に堂々たる宗教者」と。
私は高校で教えていましたけれど、生徒から何回か言われて身に染みたことがいくつかあるのです。そのなかの一つがこの言葉です。「先生は偽善者だ」と言うわけです。これにはまいったですね。自分で本当だとわかります。
どういうことかと言いますと、われわれ衣を着けたものにとっては、宗教者ぶる、こういう意識でしょう。宗教者ぶるのですよ。これは困ったものですね。お寺の息子さんで大谷大学の学生として来られて、学校の先生の免許を取りたいというわけです。何で取るのと聞いたら、寺へ帰ってお説教をしなければいけないから、と言います。その学生はどんな説教をするのかなということを思いました。それでいわゆる模擬授業をやります。すると、なかなかのものです。話す口調から、もう上から下への言い方です。「みなさんたちはこういうところはちゃんと覚えてくださいよ」と、こういうことを模擬授業でやるわけです。
それで私は、「あなたはそんなことを寺へ帰って門徒さんに言うのか」と言っていたのです。だいたい教育でも教えるという意識がおかしいのですね。そういう意識が生徒との間に壁を作るのです。大学生が、寺へ帰ったら門徒に教えると。「おまえ、そんな意識で本当に伝わると思うのか」というわけです。そんなのは伝わるはずがないですね。
だから私は高校の教員をしていたら、偽善者ぶる、先生は偽善者だと言われたら、宗教を教えている教員としては、これはたまったものではない。それからもう一つは、真宗をわかったふりをする。こういう赤裸々な姿を実は、私の本心は知っている、というわけです。
だから曽我先生は「嗚呼、自分は従来口には愚痴と云い」と、悪人と口では言うけれども、こころでは堂々たる宗教者だと自負しているというわけです。ちゃんと自己批判をしておられる。これは大きいでしょう。これを機の深信と言うのです。機の深信とは奈落の底まで連続するものです。
ところでもう一ヵ所注目してほしいのは、その次の文を見てください。下の段です。この機の深信はどこから出てきたかということです。
「如来の大慈悲を語るもの多し、而も如来を無限の智慧と知るもの甚だ少なし」と。大慈悲と語るものが多いそうです。だから「釈迦さまの世界はどうとか、如来さんが見ているぞ」とか、こういうことを言って門徒さんに語るものが多いというわけです。しかし、智慧を語るものは少ないというわけです。
ならば智慧は、どこで語るかと。「信仰は単なる感情ではない、単なる感謝ではない、単なる感涙ではない、信心は智慧である」。「如来の智慧海は深広にして涯底なし」「普く十方衆生の現実相を観照し給ふは広にして涯なき所であり、各々の現実相を明利に洞察して一点の秘密を許さゞる所は深にして底なき所である。されば如来の智慧海に入るとは深く自己の現実相を知ることである」。現実相とは機の深信とはっきりした偽善者の自己です。
ここで仏道がはっきりした。何かと言ったら、もう偽善者の自覚、実はこれは何かと言ったら、如来の、智慧の、実験だと。だから如来の居場所がはっきりしたでしょう。如来はどこにいるのですか。こんなところに如来はいるわけではないです。如来はどこに、偽善者の私に如来はおりますと言わなければいけないのです。本当は。如来さんはどこにいるのですか。あっちのほうに、そんなものではないです。私のいつわりの心におられます。
私とはどんなものだ。私は宗教者ぶる私でありますと。宗教者ぶる私にのみ如来はまします。これが仏道なのです。はっきりするでしょう。これは明治になってから、清沢、曽我という人によって、このような仏道が非常に明確に打ち立てられたのです。これを機法二種深信と言います。
だから『歎異抄』は全部それで一貫している。たとえば、「地獄は一定すみかぞかし」(『真宗聖典』627頁)とこう言って弥陀の本願をあおぐわけです。
こういうところが実は真宗のいのちであったわけです。ところが、真宗の生命が江戸時代を通ることによって、真宗の生命であるべき、真宗の要諦であるべき機の深信、つまり愚の自覚がだんだん埋もれていって、わからなくなってきた。それが明治時代になって清沢満之によってはっきりして、清沢満之から曽我量深、金子大榮、安田理深、松原祐善と続きます。
ところがこんにち、また愚の自覚がわからなくなってきた。それではもっともらしいことは叫ばれているけれども、そこには仏教がないでないかと。
これは実は「宗教的生命」が死んでいるのです。本願だけでは生命はまだないのです。本願が愚の自覚に成就する。これは如来の智慧のはたらきです。ここに本願は生命力を持つのです。本願をいくら説いても、これでは具合が悪い。だから最近の一つの課題は、「私に浄土を語れるとか」ということが課題なのです。
私はある先生のお話を聞いて、ああ、そうか、たしかに浄土を語れると思っていた。その先生が浄土を語っておられる姿を見て、ああそうだなと、私は聞いていたのですけれども、その先生は、若い学生のときに死ぬような思いをして苦労しておられるわけです。出発点はそこからきているのです。だから念仏を称えよと如来さんは言っているという言葉に、えらい迫力があるのですよ。
われわれは下手に浄土を語れば、「勝過三界」(『真宗聖典』139頁)でしょう。浄土の功徳を語っているのは『浄土論』でありますから。その『浄土論』の浄土の功徳のなかの最初の二つが、浄土の功徳を代表的に言いあらわすと言われているわけです。最初の二つは何かと言いますと、一つは勝過三界でしょう。三界。欲界・色界・無色界を超えたところに浄土があるという話ですね。これはだいたいおわかりのとおりです。
欲界というのは欲望の世界、色界というのは芸術の世界です。無色界というのは思想の世界です。思想・哲学の世界です。だから芸術や思想、哲学を超えた世界が浄土だと。
その次は何があるかと言ったら、「広大無辺際」(『真宗聖典』139頁)とあるのです。「広大無辺際」というのは広いのです。だからどこへ行っても際(きわ)がないから、際限がないことはどういうことかと言ったら、これの縁(ふち 際)があるから例えば端っぱしはあるでしょう。われわれひがんでいるものだから、すみっこに立って、俺はどっちみちあかん人間だからというところに立って遠慮して立っているのです。これは如来から見たら、おまえは何と傲慢なやつだと言うわけですよ。
縁がないのです。すると、いくら隅っこにいても、おまえはそれで如来からしたらいつも真ん中だよ、と言われている。縁がなかったらそうでしょう。縁があったら隅っこになる。縁がなかったら、どこに立っていても全部真ん中だ。だから私みたいな丈の小さいものでも、頭のいいものでも、悪いものでも、どんなものでも、おまえはそれでいいよというのが「広大無辺際」です。如来はそう言ってくれているわけです。
ところがこういうことは、私でも語れるわけです。ところが如来は「あなたは浄土が語れるのか」と問うているのです。私は今のように、ごたくをならべようと思ったらできます。しかし、そこに宗教的生命があるのかとこうなってきた。私にはちょっとないと言わなければならない。やっぱり愚の自覚というものは徹底しなければ、おそらく仏教を語っても、それは教養仏教を語ることになると思う。だから私は今の教学は非常に危ないと思っている。今の教学は危ないのです。どこに転ぶかわからない。なぜかと言いますと、本当の仏教に生きた人を知らないからと言える。仏教に生きた人とは機の深信者。
このような状況において、やはり同朋会運動というものは、今まさに必要だと思います。同朋会運動というものは滅ぶことはないのです。タイトルが「同朋会運動は必要なのか」と書いてあるでしょう。これは必要なのです。
なぜ必要かと言ったら、同朋会運動というのは、生まれたからには人間が持っているこころの奥底からの叫びに応えるものであるからです。たしかに仏教のいらない人も世の中にはおられます。
けれども人間として生まれたからには、やっぱり生まれた意味がある。これを知りたいということは、「至奧より出づる至誠の要求」(「御進講覚書」)と、清沢満之先生が言っておられるのです。
われわれのこころの、われわれの日常のこころは仏教なんていらないのです。楽しいことがあったらいいのだから。しかし、楽しいことがあったらいいのだけれども、楽しいことが終わったあとが寂しいでしょう。宴のあとの寂しさみたいなものがあるわけでしょう。そうしたら、また次の楽しみを求めなければならない。今の時代は次の楽しみを、またどうぞ、こんな楽しみがありますよと提出してくれる。一次会が終わったら、二次会だと。二次会が終わったら三次会というものです。
しかし、全部終わったあとでもまだ寂しいと、いったい何が自分が虚しいのだろうということで、こころの底のふたをめくってみると、生まれてきた意義を知りたいという願いが、私たちのこころの奥底には満ちていることに気づくのです。だから本来は至って盛んな要求です。これがわれわれのこころの奥底にあるのです。
だから仏教は人間を救うのです。全人類を救うのです。だから同朋会運動が必要かと言ったら、必要としか言いようがないのです。同朋会運動とは何か、人生に意義を与える運動である。人々に人生の意義を明らかにする運動であると言ったらいいのでしょう。その方法は何かと言ったら機の深信と言ったらいいのでありますけれども、わかりやすく言えば人生の意義を説いて明らかにするのが同朋会運動であると言ったらいい。
そうしたら、われわれは何とかして、御遠忌を機に同朋会運動を明らかにする。それぞれの寺院が同朋会運動を呼び起こしていくのです。これは東本願寺がやるということでなくて、人間の根源的欲求に応える人類の仕事であるという観点です。
だから、滅んだとか、滅ばないとかいうことではない。滅んだというのであれば、同朋会運動の方法論は滅んだ。時代遅れになったかもしれないですね。今、同朋会運動の方法論はもっともっと、工夫してやらなければ難しいのではないですか。
これほどまで人間のいのちがゲームのごとく遊ばれたという時代になってきているし、これはやはり今の時代に応じた方法論は考えなければならないと思いますけれども、その運動そのものは人類がある限り滅ぶことはない。それほどに同朋会運動というものは、人間の根源に訴えかけた運動であった。これをやったのが清沢満之の流れをくむ人たちばかりです。
これをまねした運動はあるのです。さっき言った、どこか他派はこういうことをまねしますけれど、あれはまねです。まねだから、ある意味、こういう生命力はないのではないでしょうか。生命力があるのは大谷派です。
そういう意味で大谷派に生まれた私たちは、生まれたということに対しては感謝しなければならない。ようこそ清沢満之先生が出られたところに生まれさせてもらったと、こういうことに尽きるのだろうと思うわけであります。
以上 |
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