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2008年度三条教区「住職研修会」in佐渡
「何故、同朋会運動が必要なのか」
-清沢・曽我・金子ら先達に学ぶ(2)-
(2007年度研修会の講演内容はこちら)
大谷大学教授
水島 見一 氏

 それでは、あらためまして、どうかよろしくお願いいたします。
 早いもので、宗門が御遠忌を迎えるのが二年を切ってしまいまして、また、同朋会運動が起こって五十年も、あと三年というような時期を今迎えているわけでございます。ちょうどそのときに生を受けた我が身をたいへんにありがたく思うわけでございます。真宗の真実の教えをあらためて考えるご縁を、そういうかたちで頂戴したことでございまして、たいへんにありがたいと思っている次第でございます。
 私自身は、みなさま方と違いまして、身は在家でございまして、寺院を持っているものではございませんので、そんな意味においては、寺院ということに対してきわめて無責任なことを申しあげる、ということになるかもしれません。
 それからもう一つ、現在は大谷大学に所属しているわけでございますけれども、七年ほど前までは京都の大谷高校で教員をしておりまして、したがって教員が終わって七年。そして今、大谷大学にいるということでございます。
 そしてまた、大学のときは、一応は博士後期課程満期退学ということになっておりますけれども、実際は、ほとんど大学院には行かずにいたものでございます。
 それもまた、仏教学をやっておりまして、そういうことがいろいろ現在の私の条件と言いますか、業と言いますか、そういうことでございます。だから、そういう私であるということを酌んでいただいて、好意的にご理解をいただくことを、こころからお願いしたいと思っているわけでございます。
 宗門のほうにおきまして、名古屋教区でお話をしました『大谷派なる宗教的精神』を全寺院にお配りになられたということがございました。宗務役員の方々がやはり危機感を感じておられて、個人個人はいろいろと危機感を感じて、組織というのは難しいものでありまして、一人一人は危機感を持つのでありますけれども、それが全体としてのまとまった力にはなりにくいものです。しかし御遠忌を迎えるという危機感がありまして、本来であればそのような本ではございませんが、宗務役員の方の非常に熱い願いというものと、それから当時の内局の方の危機感が一致して、出たわけでございました。
 その本は、明治から同朋会運動が始まるまでの、おおよそ私の聞いたところ、読んだところをざっと述べたものであります。中には写真を入れようということで、写真をいくつか入れましたので、非常に読みやすいし見やすいし、われわれよりもうちょっと上の世代の方々からすれば、非常に懐かしいというような印象を持たれることかもしれません。
 私たちにはこのような先学の歩みがあったということは、どうしても間違いのないことでありまして、これをやはり非常にありがたくお受けして、そしてそこに学ぶということが、今一番に大事なことだろうということを思うわけでございます。
 私がいろいろと教えを受けた先生では、私がこういう名前を出すのもいつも非常にはばかられるわけでありますし、また恥ずかしいことでありますけれども、あえて申しあげれば、私は仏教学でありましたのですけれども、松原祐善先生に非常に教えていただいたわけでございます。
 松原祐善先生は、清沢満之先生を非常に尊敬されておられました、清沢満之を偲んで、自分自身を尋ねたいと。だから、大学を終えられてすぐにご自坊にお帰りになりたかったが、学長になった、と。それも本当に図らずも、まったく予想もしていないし、なりたいとも思っていないけれども、学長になってしまったと。そういうことで、また自坊に帰るのが遅くなられた、ということがありました。
 そして、ちょうど学長になられたときに、私は大野のお寺に行ったことがありましたが、そのとき、誰かからの学長のお祝いということでもらわれた、だるまの彫りものを黙って指さして、にこっと笑って、「学長になったということは、こういうことや」と言って、だるまさんを指さされて、「ま、黙っておれということや」と。
 しかし、その学長職がなかなかの名学長であるということは、当時松原先生を支えておられた先生方、もう今は大谷大ともご定年になっておられるわけでありますけれども、その先生がいつも言っておられるわけであります。学長会に出向いたとき、学長と言えば、たいがいは大学の経営に携わるものでありますから、つい財務はいかがであろうかということを口にするということである。大学は危機であるということを多くの学長は言うけれども、松原先生だけは、「本学には清沢満之先生という方がおられる」というところから学長のあいさつが始まるということです。
 そして財務については、事務方に一任されるわけです。私学は、財務よりも、何よりも建学の理念だと。学長を見ればその大学がわかる、という学長こそ私学の学長の見本だ、というわけです。
 そういうかたちでその松原先生は、ひとえに清沢満之先生をもって生きておられた。だから、最晩年は『臘扇記』を常にお読みになっておられたわけでございます。そして、『教行信証』を読むにはやはり眼(まなこ)がいる。清沢をとおして『教行信証』を読まなければだめである、と言われていました。だから、『教行信証』を、清沢をとおさずして読むのではなくて、清沢満之の求道をとおして『教行信証』を読みなさい、と。つまり、「清沢教学」を方法論として、親鸞聖人の懐へ帰る、ということでございます。
 清沢教学と言いますと、宮谷法含師の『宗門白書』が思いおこされます。宗門の危機を救うのは清沢教学でしかないと、力説されたわけであります。昭和三十六年、一九六一年のことでありました。宗門においては総長である宮谷法含師の『宗門白書』。それから教化研究所においては、やがて名称が教学研究所に変わる、その変わり目でございますけれども、その教化研究所は、曽我量深先生をお招きして、清沢満之先生に対する連続講義をお聞きしようということで、これは五回ほど続けてありました。『真人』という雑誌にそれが載っております。
 だから、片や宗門内局においては、宮谷法含師が清沢満之を教学として表明する。片や教化研究においては、今こそ清沢満之教学を、清沢満之を勉強するのだ、ということで、曽我量深先生をお招きして、「清沢満之先生」というタイトルの連続講義をお聞きするということがありました。行政と研究所の両面から清沢教学を正面に出したわけです。
 しかし、当時はいまだに、いわゆる安心と言えば「救済」である、というのが伝統教学ですね。それが主流でした。それに対して、清沢満之が明らかにしたのは「自覚」であります。「救済」とは、これは真宗の前々からの教えでありますけれども、その「救済」というところに立つ伝統教学の方々からしますと、「自覚」は他力宗ではないのではないか、ということで面白くない。「清沢満之の教学なんて何や。あれはたかが時代教学にすぎないだろう」というわけです。
 当時、「時代教学」という言葉が多く使用されていましたが、清沢教学は「時代教学」だろう。だから、時代に制限された教学だろうと。だから、明治・近代というところの時代の制約のなかにおいてできた教学だろうと。こういうことを言って、清沢教学を下に見ようとするわけであります。
 それに対して、金子大栄先生はと言いますと、金子大栄先生は、曽我先生ほど激しくない、非常に理知的で、優しそうな先生でありますけれども、おっしゃっておられることはけっこうきついことをキチッとおっしゃっておられるのです。
 清沢満之を時代教学ということで責めるわけでありますけれども、金子先生は、すると、清沢満之が時代教学ということであれば、親鸞もそうだろうと言うわけです。清沢満之を時代教学と言うのであれば、親鸞も平安末・鎌倉時代に生まれた時代教学だろうと。「何故、時代教学がダメなのか」と。こういうことであります。教団を改革するには、時代教学こそ、今こそ必要ではないかと、そういう意味のことを言っておられるわけであります。
 そうしますと、今われわれは、親鸞教学を訪ねるということは、それなりの意味があるし、もちろんこれは大事なことではありますけれども、それに加えて、今、時代教学と言われるものを模索する時期ではないか。ただ単にいにしえに帰るというようなことだけでとどまらずに、今こそ、時代に合った教学というものが必要ではないかと、あるいは御遠忌を目前にして、そういう時代教学を少し考えてみることも必要ではないか、と思ったりします。
 なかなか私自身そこまで充分には考えきれないわけでありますけれども、今言ったような、金子大栄先生のお言葉からしますと、やはり、時代時代の課題に応える教学というものがいるということであります。
 大きく見て、「清沢教学」が今日においても充分に効果を発揮するものであるということは、間違いないと思いますので、もう一度、清沢満之先生の教学を見出すことも、今あらためてやるべきではないかと思っているわけでございます。
 『清沢満之全集』が、大谷大学が編集することによって岩波書店から出たことによりまして、清沢満之研究というものが内外において進んできております。そして、やはり、清沢満之という方の思想的な深みと多元性というものを再確認する。
 清沢満之先生の生涯が短かったわけでありますから、おっしゃっておられることが簡潔なのです。十分な広がりの可能性を有しているいわゆる『骸骨』、『宗教哲学骸骨』という論文がありますけれども、まさに『骸骨』というのは清沢満之先生のお仕事でありました。
 非常に骨太の教学が「清沢教学」。だから、清沢満之の求道こそ、今、われわれは勉強をすべきではないかと思います。
 話を戻しますと、『教行信証』を、清沢満之をとおして読むということが今こそ求められる。その派生として、時代教学という観点に立って、今一度、清沢満之の教学を勉強してみるということには、それなりに大きな意味があるに違いないと思うわけでございます。
 『教行信証』を拝読していきますと、「総序」において、韋提希の救い、「王舎城の悲劇」が説かれていますが、そのように親鸞が『教行信証』を執筆されたきっかけが、「王舎城の悲劇」という実存的苦悩であったと思われます。
 何を言いたいのかと言いますと、『教行信証』は、教学のための書ではなかった、ということを言いたいのでありまして、やはり親鸞にとっては、自分の実存的な苦悩に応えうるものとして、『教行信証』を製作されたのであろう、ということを言いたいわけであります。
 だから、われわれが普段やる教学のような営み、『教行信証』にはこうあって、これに対しては『三経往生文類』にはこうあってとかいうような、論証的な営みのその前に、やはり阿闍世とか、提婆とか、韋提希とかの業人ですね。その業人がいかにして救われるかということが、親鸞聖人の根本的な課題だったのだろうということを、『教行信証』の「総序」を見まして、思わざるをえないわけであります。
 そして、親鸞聖人自身は、常に自分のことを「愚禿」と言っておられる。常に愚禿と。ただ単に親鸞と言って胸を張っておられない。愚禿釈。「愚禿」と「釈」。「釈」とは真の仏弟子。その真の仏弟子を述べるときだけは「釈」を取っておられます。「悲しきかな、愚禿鸞」と。そのときだけは、「釈」を外されておられます。しかし、たいがいは愚禿釈と。こういうところに親鸞の立場というものを、われわれはおもんばかることができるわけであります。
 常に自らを「愚」に置いている。しかし「愚」においてのみ、娑婆道ならぬ仏道を歩むことができる。ここに親鸞のあゆみがあるのです。
 『教行信証』を見ておりますと、親鸞聖人の一番の課題は何かと言いますと、天親の「世尊よ、われ一心に」という「一心」、帰命の一心ですね。「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来」という「一心」が、親鸞の生涯をとおして常に命題と言いますか、自分自身を問いただす言葉であったように思われます。「帰命の一心」、これを親鸞は、生涯の課題にしておられた。そういうことが、「信巻」などを見ていけばよく分かるわけであります。
 それで、「三一問答」が説かれるわけであります。天親菩薩の「我一心」に親鸞は着目して、自分の救済というものを確かめられた。つまり十八願の至心、信楽、欲生という「三心」と「我一心」との関係性を尋ね当てられたのが「三一問答」ということであります。そして、親鸞は、そこで取りあえず信巻を終えると。三一問答で「信巻」の論ずべきことは一応決着した。
 ところが、そのあとに、「重釈要義」つまり、「重ねて釈する」というわけです。「要義を重ねて釈する」ということで、他力の信心を深めていかれるのです。
 親鸞聖人は「我一心」ということを「三一問答」で一応は尋ね当てたと。「さあ、そこでだ」とういことでしょう。「さあ、そこでだ」と。自分にとって「我一心」はどのようなものなのかということを自身に引きあてて確認しようということだと思います。だから、「重釈要義」は親鸞の内面の探求と考えていきたい。だからあらためて、他力信心を「横超」や「断四流」ということにおいて確認される。
 そして、その次には「真の仏弟子」です。この「真の仏弟子」を親鸞はどのように見ておられるか、というようなことであります。私は、ここに親鸞「信巻」の醍醐味があるように思います。
 「真の仏弟子」と言いますと、これは言うまでもなく「金剛心の行人」です。『真宗聖典』の二四五頁でございますか、そこを見ますと、「真の仏弟子と言うは」ということで、「真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり」とあります。この「釈迦諸仏」とは具体的には何を意味するのか、ということもいろいろと考える必要があるような気がします。求道上の具体相です。
 そして、続けて「金剛心の行人なり」と書いてある。「この信行によって必ず大涅槃を超証す」と。だから、「真の仏弟子」とは大涅槃道に立った、無上涅槃道に立った人である。つまり、涅槃へ至る道に立った一人の行人である。
 親鸞はそういう視点でずっと経や論釈を引かれまして、そして真の仏弟子の結釈として、二五一頁にありますように、「悲歎述懐」になるわけであります。
 真の仏弟子を論ずるときには、金剛心の行人を論ずるわけでありますけれども、しかし併せて、悲歎述懐せる親鸞の姿が、根底にあるのです。「悲しきかな、愚禿鸞」という自己でしょう。「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」と、さらに「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべしと」赤裸々に告白されます。そういうことであります。だから、「真の仏弟子」を論ずるにおいて、親鸞は悲歎述懐を最後に置いて、自分が「真の仏弟子」である根拠を示されたのです。
 そして、その次に一連のこととして説かれるのが「難治の機」。度し難い自分です。
 要するに、何を言いたいのかと言いますと、われわれは、真の仏弟子と言えば金剛心の行人というような観点で理解します。「真の仏弟子」とは金剛不壊の真心をいただいた人だと。「真の仏弟子」とは「金剛心の行人」であるというところで抑えて終わりがちになるわけです。
 ところが、親鸞聖人の歩みを見ますと、たしかに金剛心の行人ということでありますが、最後の方に『法事讃』の「光明師のいわく、九十五種みな世を汚す」、つまり汚された世において、ただ仏の一道だけは「独り清閑なり」と。仏道だけは独り清閑なのだ、非常に清らかなのだ。それを、「真の仏弟子」の歩むべき道として『法事讃』を引かれた。
 しかし、『法事讃』を引かれたその直後に、「悲しきかな、愚禿鸞」と言われる。私は親鸞のこの展開と言いますか、この親鸞の幾重にもなっているおこころというものについて、われわれは見過ごしてはならないということを思うわけであります。
 「真の仏弟子」とは何かと言いますと、「金剛心の行人」であると。しかし、「金剛心の行人」だけで親鸞は終わっておられない。「真の仏弟子」である親鸞のこころの底には何があるのかと言いますと、やはり「悲歎述懐」すべきわが身がある。そこにおいて初めて金剛心の行人という仏弟子になりえたという求道のあゆみがある。
 だから、「悲歎述懐」というのは、「真の仏弟子」の場です。私は求道においては「場」というものが課題になるに違いないと思うわけであります。「真の仏弟子」の「場」は、悲嘆すべき自己です。ですから、われはどこにおいてその親鸞のおこころをいただくかと言いますと、われもやはり悲歎述懐すべき自己において、悲歎述懐すべきわが身において、親鸞の真の仏弟子をいただく。悲嘆すべき自己において救われるこれが真宗の仏道であろうと思うわけであります。
 念仏を称える。念仏を称える「場」はどこかということであります。お説教が終わったあとには、『恩徳讃』を唱える。『恩徳讃』の「身を粉にしても報ずべし、骨を砕きても謝すべし」という、何とも言えない親鸞のあのおこころを、われわれはどこでいただくことができるか。こういうことを私は最近いろいろと考えるわけであります。
 例えば、人のいのちや人間の尊厳性を訴えるということは、もちろん大事なことではありますけれども、人のいのちの尊さ、人間の尊厳性というものを聞いて、ああそうか、ということはわかるかもしれない。けれども、そのようにわかった世界から、はたして「身を粉にしても」「骨を砕きても」というような『恩徳讃』が起こりうるのかどうなのかというような課題を私は持っているわけでございます。
 「身を粉にしても」「骨を砕きても」というような、わが身のこころの底からわき出るような大きな喜びというものが、はたしてどこから出るのであろうかということでございます。
 人のいのちを尊ぶということは、われわれは学校現場においてもよく学生に向かって言うことでありますけれども、聞けば、ああそうだとなりますけれども、しかしそこからはたして、われわれは「身を粉にしても」「骨を砕きても」というような言葉がわき出るようなところまで深めて、それを受け取ることができているかどうかということであります。もっと言えば、耳障りがよくて、なるほどと言ってうなずきやすい言葉からは、なかなか「身を粉にしても」という言葉は出てこないのではないかということを思うわけであります。
 真宗は、基本的には自己否定でしょう。自己否定をされたことによって、如来の光明を一手に引き受ける心が私のなかに出てくる。自己肯定からは、如来の心を見ているだけのことでありまして、自己否定によって、自分のなかに如来の光が初めて入る場が成就する。ここにおいて初めて『恩徳讃』が出てくる。
 このような親鸞の自己否定の仏道というものをわれわれは今見失っているのではないか。こういうことを、今、この「悲歎述懐」が真の仏弟子の根底であるということを言っているわけであります。われわれは、何か忘れものをしているのではないかということです。
 私もそういう耳障りのいい話をお聞きしたわけでありますけれども、そうしますと、聞いた人たちは、いいお話だったということをおっしゃるのだけれども。どういうことがそのお話の内容かと言いますと、真実の教えにわれわれは出遇いましょうという話をされるわけです。
 私はそれを聞いていて、「真実とはいったい何か」ということを考えるわけです。親鸞のいう真実とは、身の事実のことでしょう。真証の証に近づきたくない、定聚の数に入ることを好まないという身の事実、そういう身の事実のことを言っているわけです。ところがそのお話ではそうではなくて、真実の教えを聞くということだけなのです。すると、いったい真実は何か。これがあいまいなままですね。あなたにとって真実は何かと言われたら、自身における真実を言わなければならないと思います。また、「聞く」がいったい何か。「聞く」ということにしても、「聞というは」というのが『教行信証』にありますね。「聞というは、仏願の生起本末」を聞くのだ、と、これも重い言葉でしょう。「仏願の生起本末を聞きて」。これは「聞即信」の「聞」です。しかし先の話では、聞くというのは、ただ真実を聞くということだけですね。
 『教行信証』には、その次に「聞きて疑心あることなし」とあります。疑心です。聞いて仏智を疑うこころはない、というのです。親鸞聖人は、「聞というは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」と言われるのは、続けて「「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり」とあるように、如来回向に疑心がなくなるのが聞くことなのです。聞即信であります。
 疑心とは、われわれの根本無明です。疑心というのは、二十願の問題でありまして、これは根本無明です。親鸞聖人は二十願を明らかにされた。これは法然と違うところですね。法然上人は二十願のおこころはつかんでおられたと思いますけれども、二十願に対して、まだ明確には述べておられなかった。
 ところが、親鸞に至って、初めて二十願、仏智疑惑に注目された。それが親鸞であります。自分が仏になれるかどうかの瀬戸際の問題が疑心です。具体的には、仏になろうとして他力の念仏を自力で必死に称えるのです。しかし、仏にはなれません。それが「愚」です。しかし、だからこそ、それが如来のはたらく「場所」です。そこから念仏がわき出てくるのです。親鸞聖人の仏道とは、ひとことで言えば、愚禿の自覚であります。
 愚禿に立ってこそ、初めて法が生きるわけでしょう。だから、愚禿というのは、法のはたらく場所であります。ですから、今われわれは、法のはたらく場所を忘れていないか、ということを確かめなければならない。そういうことを私は今言いたいのでございます。法のはたらく場所、これは愚禿であると。これを忘れていはしないかということであります。
 親鸞八十五歳、善鸞義絶において『正像末和讃』をおつくりになられ、そこにおいて、悲歎述懐の和讃もおつくりになったというような親鸞聖人のお姿。こういうものをわれわれは見落とすわけにはいかないわけでございまして、そういう仏道が、実は真宗の根幹である。
 もっと言えば、われわれは今、親鸞を比叡山の上に上げてはならないわけでありまして、やはり、親鸞を比叡山から大地に下ろす。親鸞はそれを大いに好まれるに違いない。大地というのは、群萌の大地であります。これは無量光明の大地でありますから、親鸞はそちらに下りたいに決まっていると思いますけれども、ともかくわれわれは、親鸞を比叡山の上に上げてはならない。やはり、愚禿の大地に下ろさなければならない。こういうようなことを思うわけであります。
 併せてわれわれは、この愚禿の大地、群萌の大地に足を下ろされることを明治の時代にやられたのが、清沢満之先生だということを忘れてはならないですね。
 清沢満之先生は、親鸞の仏道のいのちを回復された。どういういのちかと言いますと、親鸞の愚禿の自覚といういのち。愚禿というのは、群萌の大地に立つこと。そういうことを清沢満之先生は回復された。これを銘記すべきであろうと思います。
 先ほど、松原先生は、晩年には『臘扇記』をお読みになっておられたと申しました。そうしますと、清沢満之先生はその『臘扇記』をどういうおこころでご執筆になったのかと言いますと、明治三十一年の八月からということでありますけれども、その年には白河党の教団改革運動が頓挫していきます。
 何故教団改革運動が頓挫したかと言いますと、清沢満之先生は、形式的改革から精神的改革へというプロセスをちゃんと考えておられた。まず形からきちっと整えてから、精神の改革へ入ろうとしておられた。
 ところが、多くの門末は精神の改革を好んでいないという実態に触れたわけです。多くの門末は形式的な改革が整うと、そうしたら、もうここで議会も開かれたのだから、もうみんな帰ろうというわけで、門末が帰ってしまったわけです。
 清沢満之先生は、そこであぜんとした。いかに帝国大学を出た数人が踏ん張って精神的改革をやろうとしても、これは無理だと。よってこれからは宗教的信念の確立に入ろうと思うと言うわけです。
 清沢満之先生の宗教的信念の確立とは何かと言いますと、それは本当の改革をおこなおうということではないか。だから、清沢満之先生の宗教的信念の確立という営みは、教団改革そのものであると言っていいのではないか。
 だから、宗教的信念の確立は、教団改革が頓挫したということではなくて、これは教団改革運動の連続だったと思うわけであります。そして、教団改革運動は真宗大学で結実する。宗教的信念の確立が教団改革の一貫であり、すなわちそれは教育です。そこに、真宗大学ができた。だから、「他の大学と異なりまして」ということになるのです。「自信教人信の誠を尽くすべき人物を養成する」というのは、これは教団改革ですね。
 だから、民主的な改革ということの前に、つまり、「真宗再興」という観点で一つ清沢満之先生に学ぶということであれば、宗教的信念の確立によって教団改革を成し遂げる、その手段として真宗大学を建てたと、このようになるわけであります。
 そういうことで、清沢満之先生は、社会運動としての改革運動は、取りあえずはひとまずおこうと。そしてこれからは宗教的信念の確立に入っていこうということで、いわゆる内観に入っていかれる。
 そして、そこでまず、エピクテタスを読まれます。清沢満之先生といえば「予の三部経」ということで、『歎異抄』、これは早くから親しんでおられる。それから『阿含経』。それから『エピクテタスの語録』があります。
 清沢満之先生は、自分の内面的な要求に、清沢満之先生自身の言葉で言えば「人心の至奥より出ずる至盛の要求」、その、人心の至奥より出ずる至盛の要求に基づいて、清沢満之先生は「予の三部経」を読んでおられる。だから、自分が本当に満足するために「予の三部経」を読んでおられる。だから、教学目的のための読書ではない。自分が満足するために本を読んでおられるのです。
 そしてまた、人生において苦労した人の本を読めば、必ず得るところがあるということも言っておられます。清沢満之先生はどこまでも実存的関心に立っておられるのです。
 この『エピクテタスの語録』において清沢満之先生は何を明確にされたかと言いますと、それは求道主体です。
 『大谷派なる宗教的精神』の三〇一頁の下の段をご覧いただければと思います。そこに、訓覇先生の言葉がのせてあります。ちょっと読みます。
 「曽我先生を講師にしたおかげで」と。曽我先生は昭和十七年に『歎異抄聴記』の安居をされますけれども、その前に訓覇先生が、今まで「異安心」として教団を追われていた曽我先生を「講師」として位置づけたのです。
 だから、「その講師にしたおかげで、のちに暁烏内局ができ」、これはまたあとから話をします。「宮谷内局ができた。だから曽我先生の講師就任は大事だったんだ。僕が死ぬと、『歎異抄聴記』がどうして生まれたかわからなくなる。ああ、『歎異抄聴記』か、あれは、ええ本や、ということですんでしまう。そんな簡単なものじゃないんだ。清沢先生の宗門改革は完全に失敗した。その悲壮な十字架を背負うような、その歴史が逆に浩々洞の伝統として花開いた。こう言っていいだろうと思う」。まあ、改革運動に失敗したのが逆に浩々洞の伝統を形成したと。
 そして、「われわれは、それから言えば孫弟子のほうだけれども、そういった歴史的な経過があって『歎異抄聴記』が生まれた。御開山の浄土真宗の教えが、徳川時代の幕府の政策で単なる救済教学に転落しておった。単なる救済教になっておった。それを、自証・救済の自証という自覚をとおした救済であって、単なる救済ではないと清沢先生が初めに言われた。それがずっと浩々洞の伝統で来た。
 そうすると、やはり、単なる救済教という徳川時代からの伝統教学の人たちは面白くないから反発する。浄土真宗と浄土宗の区別がない。どこで区別するのか、明らかな区別はない。まずそういうことを清沢先生が明らかにされたという功績が、のちにいろいろと尾を引くわけだ。そういうことで、この間の十年余りの東本願寺の騒動も」。
 「騒動」とは昭和四十四年からの開申事件のことを言っているのでしょうね。
 「もとはやはり、清沢先生の救済と自証の問題である。さかのぼって言えば、まあその起こりは、財産問題といういろんなことで非宗教的な問題のために騒動が起こったけど、そのためにわれわれは改革派とジャーナリストから名付けられた。改革派とは思っとらんけども。その改革派というものは、財産問題とかという問題のために教団に混乱が起こるということは、この親鸞教学が甚だ正常でないから正常化しようということ。それは十年戦争だ。それが片付いた。十年余りを経て、そしたら一応正常化になった」と。
 このように訓覇先生は、清沢の伝統を述べておられるわけであります。つまり、清沢満之先生の出現された意味は、いわゆる仏道の自覚自証にある。求道主体というのは、仏道の自覚自証の主体だ。
 だから、ただ勧められて仏教を聞いているのではないのです。はっきりと、純粋なる、私のこころの奥底から求めずにはおれないような求道心があるということ。これはエピクテタスによって明らかになったのです。
 エピクテタスは、鎖で手足を縛られた奴隷哲学者でありますけれども、エピクテタスが言うには、私は手足は縛られているけれども自由はある。何が自由かと言えば、考える自由がある。意念の自由があると言われます。つまり、われわれに考える自由があるということは、求道する自由があるということです。
 その求道する主体をどこかに見失ってしまって、どこかで忘れてしまって、ただ道を求めると言っても知識教養を身につけることをしているのかも知れない。そういうことではなくて、はっきりと私が道を求める、ということを言ったのが、エピクテタスによって導かれた清沢満之先生が表明されたわけであります。
 だから、清沢満之先生はエピクテタスによってはっきりと、主体的な仏道が明らかになった。誰が道を求めているのか。それは「この私だ」というわけです。
 真宗にはそれがいるのでしょう。誰が仏道を求めているのかと。この私だと。こういうような、道を求めるということの主体性というものを、清沢満之先生はエピクテタスにおいてはっきりされた。このようなあゆみを清沢満之先生は『臘扇記』において思索されています。
 そして、それが、『臘扇記』十月二十四日です。
 清沢満之先生は当時、苦悩が二つあった。一つは、結核の身であるという苦悩がある。もう一つは、お父さんを引き連れて西方寺に入られたから、いわゆる遠慮があります。そういう人情の煩累という苦悩があった。そういうことは、清沢満之先生が自分を回顧して言っておられますけれども、そのような死の問題と人情の煩累という問題、その二つがあるのです。その苦悩を持って、清沢満之先生は意念の自由をもって道を求めていかれます。
 今、私は自分を見ていて、おまえは仏道を求めているのか、と問われているということです。私なんかは、いやあ、と言って頭をかかなければいけないかもしれない。誰が仏道を求めているのかというのは、「主体」の問題です。勉強していても、それは仏道を求めている姿かと。こういうことは、本当に問われるような気がします。誰の仏道なのかということです。誰の人生をおまえは生きているのか、というのと一緒のことです。
 それで、清沢満之先生は、いかに哲学・科学をもって、と言われる。近代人ですね。哲学や科学をもって一所懸命に考えるけれども、生前、それから死後の世界、そして現在においても、これはまったくわからないと。不可思議の関門に閉ざされている、もうわからないと言われます。いわゆる「四顧茫々」たるなかにあって、もうどこを見ても、わからない状況にある。しかし私には意念の自由があるのだ、と。どんな自由かと言ったら、「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」と考える自由です。
 これは、自覚自証の表明です。そしてその前に、「Know thyself」と英語があります。「汝自身を知れ」という意味です。「汝自身を知れ」とは、ギリシャのソクラテスが感銘を受けたアポロンの神殿のドアの上の額である言葉でしょう。
 そうして見ると、清沢満之先生の「自己とは何ぞや」というこの問い掛けは、現代から見ますと、一見すれば、時代に逆行するかのような、つまり社会の問題を棚に上げているように見られがちでありますけれども、しかし、この「自己とは何ぞや」、あるいは「汝自身を知れ」は、人類の普遍的な課題でしょう。だから、やはり真宗は人類の普遍的な命題に答えうる思想であろうと思います。
 ともかく清沢満之先生は、はっきりと主体的な仏道というものを明らかにされたということでございます。
 それでは、ちょっとここで休憩させていただきたいと思います。
(休憩)
 お疲れのところを、どうかあと一時間二十分ほどですけれども、よろしくお願いいたします。
 実はおとといの夜から四回生の卒論の一泊研修を大学のセミナーハウスでやってきました。何を卒論に書くのだという話をしておりまして、指導教員として願うことは一つあると言ってきました。つまり、書いてよかったという、思いのわき出るような論文を書いてもらいたい、ということを言ってきたわけです。
 そのためには、まず序文が大事だと。初めが大事であって、自分の内面から何が書きたいという要求が出るかということを、よく自分に聞いて書くようにと言ったら、一人の学生が来まして「何で私の家が寺なのか」と言います。
 それで私は、あなたよく「寺に生まれたのが業だ」と言われるだろうと聞いたら、よく業だといわれますと。では業について書こうと。『歎異抄』をもとにして業を研究したらどうかと、昨日そういうように話をしていたのです。
 なかには、私の研究の影響もあってか、金子大栄先生の非常に大事な「学問論」をやりたいという学生もいました。金子大栄先生が大谷大学を昭和三年に追放されましたが、そのとき当時の大谷大学に対して、身を投げ出すというかたちで「私の真宗学」を論じておられます。『真宗学序説』という本がありますけれども、そのあとに「私の真宗学」というタイトルを挙げて、自分の学問論を唱えておられます。
 「私の真宗学」。どういうことかと言いますと、簡単に言ったら、先ほどの話どおりです。自覚に結びつかない学びというものは、金子大栄先生においては真宗学ではないのです。浄土の観念というものがあり、異安心問題ということで取り扱われたけれども、異安心という攻撃には、根拠は何もないのです。ただ安田理深先生からしますと、あれはタイトルの付け方が悪いというわけです。
 金子さんのタイトルが悪いから、勘違いされるのだと。観念の浄土と勘違いされていると。浄土の観念だけれども、あれを観念の浄土と間違いやすいようなタイトルを付けたからいけないのだと言っておられました。要するに浄土の観念というのは、浄土の自覚です。自覚において浄土ありということが、金子先生の言いたかったことなのです。
 今まではただ浄土があるか、ないか、わからないけれども、ただあるように思って純朴に手を合わせて南無阿弥陀仏と言っているご門徒がおられるが、そのような人たちに対しては、自覚ということを訴えたい。純朴な人たちに対して、純朴さは決して否定すべきものではないけれども、自覚を訴えたい。また、ちょっと教養のある人は、浄土なんてあるはずがない。あんなものは物語の中のものであると言うが、そういう人に対してでも、やはり浄土は自覚のなかにあると訴えたい。
 だから清沢満之先生は、如来はどこにあるかと言ったら、如来は念ずるもののところにあるとおっしゃったでしょう。これははっきりするわけです。如来はどこにあるかと、どこにもない。ただ自分が念ずるところに如来がある。だから真宗学というのは、清沢満之先生からすれば主観主義の学問です。如来はどこにあるか。私が如来を念ずるところにある。私は如来を実験した。だから実験主義という。これは清沢満之先生の打ち立てた非常に大きなことなのです。
 われわれは如来浄土がどこにあるかといったら、頭のいい人は説明しようとして、客観的に説明しようとする。こうなれば、これは科学的な論証をもってすれば、宗教というものはたちまち木っ端みじんになってしまうわけであります。だがそうでないわけです。明治維新のときに廃仏毀釈が起こって、その廃仏毀釈において各宗門は近代化に迫られましたが、その近代化のためには、二つの方法がある。
 一つは、わが大谷派宗門においては命がけにイギリスに渡られた南条文雄、笠原研寿という方々の、あの『梵文無量寿経』を持ち帰ってこられたことからはじまるところの、きちっとした原典批判に基づく科学的に教学を打ち立てるという近代化です。これは大谷大学のこんにちの学風として、きちっと残っています。南条文雄先生はそれを実行されました。そしてもう一つは清沢満之先生の近代化です。南条先生は文献ということにおいて科学的な意味で近代化をおこなったけれども、清沢満之先生は思想として近代化をおこなったということでしょう。主観主義、実験主義、これは思想的営みです。私の思想として浄土はこうだと。私の思想として如来はこうだと言うのです。だから思想的な営みにおいて真宗を近代化した。これが清沢満之先生。だから清沢満之の研究者が出るのです。たとえば、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas)というヨーロッパの思想派と比べた今村仁司先生とか、そういう先生方は清沢満之を他の思想家と比べて、清沢満之を評価しておられます。
 大谷大学の初代学長清沢満之は思想、二代学長南条文雄は文献、三代学長佐々木月樵は両方と言ってもいいほどです。
 南条文雄先生の伝統は、大事です。しかし、大谷大学の弱いところは何かと言いますと、これは思想である。ということで佐々木月樵先生は鈴木大拙先生を招いたでしょう。鈴木大拙先生を招く。京大から西田幾多郎先生を招く。そのほかのちに京都学派といわれるような人たちを招いた。そして宗門からは金子大栄先生を呼んだ。
 高倉の真宗学の大家のおられるなかに、そういう先生方を入れるわけです。河野法雲師とか、大須賀秀道師、斉藤唯信師とか、そういう方々のなかに、西田幾多郎先生、鈴木大拙先生を入れる。金子大栄先生を入れる。そして、最後は曽我量深先生を入れる。これは大正十四年だったと思います。最後に曽我量深先生を入れたのは、これはたぶんに宗門のバランスを見ておられたのだろうと、私は邪推します。
 曽我量深先生は、学生に対する感化力は人一倍強かった。だから、清沢満之先生の建てた真宗大学は、あそこは異安心をつくる府であると言われておりましたので、その真宗大学から下手なものは入れてならぬと言うわけです。曽我量深先生に比べれば金子大栄先生はまだおとなしい。しかし、おっしゃっていることは、本当は厳しいんです。曽我量深先生は激しいし、学生にはものすごく感化を与える。だからそういう“問題”の曽我量深先生を入れたのは佐々木月樵先生が亡くなる前年です。大正十四年に入れられて、その翌年に佐々木月樵先生が亡くなっておられると思います。
 佐々木月樵が亡くなれば、たちまちのうちに、高倉教学の反動が起こってくる。そして浄土の観念をやり玉に挙げる。浄土の観念のどこが異安心なのかよくわからないが、異安心だ、というわけです。
 曽我量深先生に対しては、異安心として取り上げて議論したら曽我先生に負けるから、だから異安心としては取り扱われないのです。
 だから当時の宗議会の議事録が、『真宗』に載っていますけれども、それを読んでいたら、宗議会議員の方が質問をするのです。「金子先生の顛末はどうなったか」と。すると、「この場では答えない」と言います。そうこうしているうちに、金子大栄先生が僧籍を剥奪されると、今度は「もう大谷派の僧籍のない方だから論ずる必要はない」と。こういうようなことです。異安心問題については宗門そのものは、まともには議論をしていないのです。
金子先生の言いたいことは「私の真宗学」です。主観主義の仏道です。だから、“おまえは求道しているか”、という問題です。金子大栄先生はそういうことを言っておられる。われわれ一人一人に、“おまえはちゃんと求道しているのか”というようなことを言っておられる。そういう真宗学ということを金子大栄先生は訴えておられるのです。
 これをさかのぼっていえば、清沢満之先生が、「信仰主体」というものを明らかにされた。そこに伝統するのです。だから清沢満之先生は自分の病気などもすべてさらけ出して「自己とは何ぞや」と問うた。「自己とは何ぞや」という「自己」というのは、これは形而上学的な自己ということではなくて、自分自身の実存でしょう。自分の業的存在のことです。『歎異抄』の言葉を使っていえば、宿業存在です。結核の宿業を持った自分。それから人情の煩累に悩まされている自分。このような形而下のどろどろとしたところにおいて、「自己とは何ぞや」という大問題が起こっているのです。
 いかにして、この私が救われるか。これは「私の真宗学」という言葉にもありますけれども、真宗学の大問題です。おまえは求道しているか、おまえは本当に救われたいのか、と問われる。そう問われたら、何となく頭をかくというか、顔を覆わなければならないことは、私にはよくあります。そういうことをやはり清沢満之、曽我量深、金子大栄という先生方は、きつく問うておられるに違いないと思う。
 「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」というわけです。そして、そのあと即座に「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に、法爾に、此現前の境遇に落在せるもの即ち是なり」とあります。これは全部、明治三十一年十月二十四日の日のことです。「自己とは何ぞや」といったあとで、「自己とは他なし」と、こういうように仏道は展開していきます。
 ここでの「自己」とは如来を受領する場です。われわれは主体的に仏道を求めなかったら、如来はわれわれのどこに成就するかわからないのです。本願成就の「自己」です。本願はどこに成就したまうか。「至心に回向したまえり」。どこに如来は至心に回向してくれるかといったら、これは「自己とは何ぞや」という「自己」です。その「自己」がなければ、如来の回向する場所がわからない。本願がどこに成就したらいいかわからない。
 だから、今われわれは本願成就する場所がわからない仏道を、やってきているのではないかということが反省をさせられるわけであります。本願成就の場所はどこかと言ったら、「自己」です。「自己とは何ぞや」。求道主体において、本願は初めて成就する場所を得る。この私に本願が成就する。
 この私とは、いったい何だ。先ほどの話で言いますと、親鸞の言葉で言えば、愚禿の身です。愚禿の身において、初めて本願が成就できる。本願はどこに成就するのだと。愚禿の身において成就する。したがって、われわれのなすべきことは何か。愚禿の身の発見。これしかないのです。
 如来のはたらきは絶えずわれわれを照破してやまない。しかし、如来のはたらきに背を向けているのはわれわれです。如来は背を向けたわれわれをも、最後はつかんで放さないのです。摂取不捨の利益だから。
 如来はわれわれを後ろから追いかけてでもつかんで放さないというのは、如来のはたらきです。われわれはその如来のはたらきを受ける身になることが、われわれの責任です。救うのが如来の責任。救われるのは、われわれの責任。如来は本願成就して、責任はすでに果たしておられる。しかし、救われる身となるつまり「愚身」の自覚という私の責任が、ほとんど果たされていない。だから真宗が衰退しているのです。「機の深信」の衰退です。
 だから清沢満之先生によって真宗がよみがえった。たしかによみがえった。そのあとに曽我量深が出る。金子大栄が出る。一方において暁烏敏が出る。高光大船が出る。藤原鉄乗が出る。その第二世代としては安田理深が出る。松原祐善が出る。この越後においては北原繁麿先生が出られる。山崎俊英先生が出る。いずれの先生方も、「機の深信」を実践しておられるのです。
 『大谷派なる宗教的精神』の一三〇頁、もし、お持ちの方はご覧ください。ここに写真が載っているのです。この写真、いいでしょう。これは真ん中に安田理深先生がおられるのです。ちょっと厳しい顔をして、これは松原先生です。
 そして北原繁麿先生が上段中央です。前の右の端のほうに山崎先生。これらの方々は、それこそ身命を顧みずして、加賀の三羽烏、先ほど言いました暁烏、高光、藤原という三人の夏期講習会に駆けつけておられるのです。
 さて、『大谷派なる宗教的精神』一三三頁から読んでみます。ここは非常によく仏道がわかる箇所です。これは山崎俊英先生の『興法』という雑誌に発表された文章を①から⑦まで番号を付けているのです。①から③までにはどういうことが書いてあるかといいますと、山崎俊英先生の時代は、一九二九年に世界大恐慌が起こって世界中が混乱している時です。いわゆる持てる国、持たざる国とに分かれ、持たざる国は海外に侵略して資源を得ると必死です。ですから日本も昭和6年に満州事変を起こします。
 満州事変が起こった前年に興法学園ができているのです。そういう時代において山崎俊英先生に対して安田理深先生は、「世界観を考えよ」とおっしゃったのでしょう。すると現実が襲いかかってきたのです。現実とは満州事変や、大谷大学の「クーデター」といわれる本山による大学介入という出来事によって、大谷大学は再び混乱しているのです。金子・曽我事件後に、また大谷大学の教授が総辞職するという事件が起こったのです。そういう大混乱の現実が襲ってきたら、世界観建設なんて悠長なことはできないというわけです。
 山崎俊英先生は、仏教はたしかに認識論とか現象学とかいわれるけれども、そんなことは現実と向き合っている自分には余りにものんきだと。「学問はしょせん仏道になんら加減するものでありません。法滅の悲しみははからずもわれらに真に仏道を知るの道を教えてくれた。法滅の悲しみのみが今襲ってきている」と言います。
 だから、「学的大系の建設」の目論見から一転して求道に生きんとするものの僧伽が計画されることになるのです。これは、先ほどの言葉で言いますと、現実と向き合っている信仰主体の動きです。
 そして④に、現実の問題と向き合うには、マルキシズムが課題であるし、また谷大生としては回心が問題だ、と言うわけです。回心がなければ仏道でないのです。「雑行を棄てて本願に帰す」。これが親鸞の回心です。これによって浄土がはっきりとするわけでしょう。ですから、これからは山崎先生は、現実と向き合いつつ回心を求められることになります。仏道は理屈や学問ではないのです。
 親鸞は三十五歳で越後流罪になられる。越後の大地は念仏者にとっては、なんともいえぬ大地なのです。越後の大地において親鸞はあらためて自分の仏道を問い直される。吉水時代において親鸞は、簡単にいって“いい気”になっていたところがあったかもしれぬ。例えば親鸞は、俺の信心と法然の信心と一緒だと思うと。すると、まわりの弟子たちは、おまえそんなはずがないだろう、と言うわけです。おまえみたいな若造とあの法然と一緒なのか、と言うのです。
 親鸞は法然と四十歳違いますからね。親鸞と。そこで弟子たち、それなら法然に聞いてみようと言ったのです。すると法然は、親鸞の言うとおり、私の信心と親鸞の信心は一緒だ。弥陀より賜った信心だから一緒だ、と言ったのです。これが吉水時代。非常に楽しい時代であったでしょう。
 それが断ち切られたのが承元の法難です。安楽坊とか住蓮坊らが、後鳥羽上皇の女官を集めて、念仏の教えを教えて出家させたことが発端でしょう。それで後鳥羽上皇が腹を立て、それで親鸞は越後流罪になった。
 もしみなさま方が流罪になられた親鸞であれば、どういう思いになられますか。あいつがいらぬことをするからだ。安楽坊がいらぬことをするからだと、絶対そう思うと思います。私はなぜこういうことを言うかといったら、私にはこういうこころを教えてくださった人がおいでになるわけです。それは誰かというと、これも越後の方で、曽我量深先生です。
 曽我量深先生には、すき間のない機の深信があります。例えば、『大谷派なる宗教的精神』の二七〇頁です。『大谷派なる宗教的精神』の二七〇頁。ちょっと読みます。上の段から。
 「自分は昨年十月四日に、いよいよ郷里北越に一野僧となり終わりた」。真宗大学が京都へ帰ったものだから、曽我先生は落胆して越後へ帰られました。「わが郷里は雪の名所である。自分は時々まったく往来途絶せる原野の中央に、ただ一人豪々やる大吹雪と闘いつつ、進むところの自己を発見するとき」。
 雪の吹雪のなかに曽我量深先生は立っておられるわけでしょう。吹雪いている中にただ一人立っておられる。悲絶の感に打たれる。「自己を顧みれば全身多く雪に包まれ、雪を吸ひ、雪を吹くところ一箇の怪物である」。自分を怪物であると深信する。「此時我は宗教家たるを忘れ、学匠たることを忘れ、国家社会を忘るゝ。而して、遂に人間たることも忘るゝ。自分は此時唯一箇の野獣に過ぎぬ。此時は如来も忘れる、祖師も忘れる。祖師の教えも忘れる。嗚呼自分は従来口には愚痴と云ひ、悪人と云ふと雖ども、心には慥に堂々たる宗教者、一箇深玄の思想家を以って密に自負してをるものである」と。
 要するにどういうことかと言いますと、大吹雪の雪の中に自分はたたずんでいる。その自分のこころはどういうものかと言えば、怪物にすぎないではないか。どういう怪物かと言ったら、まわりは誰もいないのだけれども、俺は真宗大学で教鞭を執っていた人間である。俺は学者だったのだ。俺は宗教者だったのだ。こういうように、一人で自負しているような恥ずべき存在である。
 こんな思いは、われわれのなかにもあるでしょう。誰もいなくても自分一人の部屋の中にいて、俺は真宗大学で教鞭を執っていた人間だ。俺はちゃんとした宗教家だったのだ。おまえらと違う、という思いはどこかにあるに違いない。
 これを曽我先生は、「密に」と。この「密に」ということが生きているのです。「密に自負してをるものである。口には一肉塊と卑謙しつゝ」いるけれども、「心には如来に依りて活きつゝあると自任しつゝあるものである」。
 俺は肉の固まりで救われないと思っているけれども、心の中には、俺は如来によって生きているのだ、と思い込んでいる。そういう自己の内面を曽我先生ははっきり言っておられる。
 「然るに今大吹雪の中に発見されざる自己は唯一箇驚くべき仏力に過ぬ。自分は歳三十八歳、始めて、自ら白雪を呼吸する食雪鬼なるに驚いた」と言われます。すなわち、「自己とは何ぞや」、「食雪鬼である」。
 ところがこの食雪鬼の自覚が大事です。ですから続けて、「ああ、この食雪鬼これ百年の昔藤原の貴公子聖光院門跡」、これは親鸞のことですね。「吉水の上足たりし我が祖の深き実験だった。浅間敷哉食雪鬼、我等は久遠の食雪鬼である」と。もうどう見ても助からない存在なのだと。ところが、「崇き哉也、食雪鬼の自覚、此自覚は浄土真宗を生んだ」とあります。
 この食雪鬼の自覚が浄土真宗を生んだとありますが、この一言は見逃してはなりません。食雪鬼なる自覚が浄土真宗を生んだのです。私は曽我量深先生の実験には本当にうなずかざるを得ないのです。この実験が浄土真宗を生んだのだという叫びは大事です。
 そして「此自覚に入らしめん為に如来の本願修行がある」と。すなわち、どこに如来本願があるか。「自分は今にして如来の願行の少分を実験させて」もらうと言われます。「我は今や現実なる自覚無作の大法林にあるではない乎」と。食雪鬼の自覚というものは、自分が法のなかにいるということを証しするものだったということです。単にああ、われは法のなかにいるといって喜んでいるのは、これはぬか喜びと思う。何の内容もない喜びでしょう。そうでないのだと、しっかりと大地に足を着けた喜びでなければ、本質は空しいままだ。大地とは食雪鬼のわれの自覚の大地。われは食雪鬼のような物力にすぎないわれだった、という自覚を持って、大地に足を着け、そこにおいて、初めて如来のはたらきのなかに自分を発見できた。
 仏法とは大地に足の着いたものです。大地に根着かない仏法を語ったら、それは『大谷派なる宗教的精神』二七〇頁の次の文にあります、「如来の大慈悲を語るもの多し」とあります、そのことです。現実、如来の大悲だけを語るものが多いのです。
 だから曽我先生は「如来の大慈悲を語るもの多し、而も如来を無限の智慧と知るもの甚だ少なし(中略)信仰は単なる感情ではない。単なる感謝ではない。単なる熱涙ではない。信心は智慧である」。仏法は感情ではないのです。大地から足を離れた如来は、ありがたいものかもしれないが、それでは通用しないのであります。
 そして「信心は智慧である。「如来の智慧海は深広にして涯底なし」普く十方衆生の現実相を観照し給ふは広にして涯なき所であり、各々の現実相を明利に洞察して一点の秘密を許さゞる所は深にして底なき所である。されば如来の智慧海に入ることは深く自己の現実相を知ることである」と。「自己の現実相」、すなわち、食雪鬼なる自己の自覚において、如来の智慧が実験できるのです。
 如来のはたらく場所を食雪鬼としてわれわれのなかに明らかにするということが同朋会運動のポイントとなるということを、今申しあげているわけでございます。
 このような曽我先生の教えを受けた方に、高光大船という方がおられて、その方の文章が、『大谷派なる宗教的精神』二九二頁にあります。
 ちょっと歴史を少し整理しますと、清沢満之先生が東京に真宗大学をつくられた。しかし厳しい学校の規則に対する学生の反対運動が起こったために、清沢満之先生はその責任を取って真宗大学を引かれたわけであります。その後、これも越後の方で関根仁応師が責任を担っていこうとされるわけでありますけれども、辞職、そして、その後南条文雄先生が学長となりますが、やがて本山のはたらきによって京都へ移転されたのです。
 なぜかといいますと、東京の真宗大学には学生がたくさん集まって黒字であり、本山の高倉学寮は赤字だったのです。また、東京の真宗大学は異安心をつくるところであるということで、本山には危機感があったのです。ですから、あそこをたたもうということになりました。
 その移転に真っ先に敏感に反応を示したのは学生たちでありまして、東京に真宗大学がなくなるということは耐えられないということで、学生が反対運動を起こしたりしました。そこに曽我量深先生は田舎へ帰られたのです。
 大谷大学はその後、清沢満之の系統ということで南条文雄先生が第二代学長、第三代学長には佐々木月樵先生に来てもらうということで、大谷大学のこんにちの基礎ができたのです。だから南条文雄先生を父とし、佐々木月樵先生を母とする大谷大学ができたわけです。
 そして、昭和に入って曽我・金子異安心問題が起こって、曽我、金子は追放され、ここに興法学園ができました。昭和5年です。曽我、金子が追放されたあとの大谷大学はどうかと言いますと、残っておられたのは鈴木大拙先生、それから大庭米治郎というドイツ語の先生も残っておられた。そういう大家は残っておられたけれども、しかし仏道にきちっとしたかたちで責任を持とうとする人は、ほぼ大谷大学を出てしまわれた。
 そういう方々の出たあとの大谷大学はどんな授業であったかといったら、これは節談説教を聞いているような授業であったということです。だから学生の評判が悪いのです。そういう大学でした。
 興法学園は先ほどの資料にありましたように、安田理深、松原祐善、北原繁麿、山崎俊英という四人の方々によってできたわけでありますけれども、戦後の真人社は大人の集まりであったのに対して興法学園は学生中心なのです。最年長が安田理深先生で三十歳でした。
 興法学園のあった鹿ヶ谷のその近隣には、京大の学生が学生親鸞会をつくっていたわけです。その学生親鸞会に属していた人が、大谷大学をおととし退職になられた長谷正當先生、京大の宗教哲学者がおられましたが、そのお父さんや、西元宗助という京都教育大の教授をしておられた先生など。そういう京大の学生が中心であったのが学生親鸞会です。大谷大学の学生は興法学園、二つ並んだわけです。
 学生親鸞会は信仰体験を得るのだと、回心を得るなどということで活動します。それに対して興法学園は、あくまでも教学であるということであったそうです。
 ところが興法学園は学生中心であったためにお金が続かなくなり、二年ほどで頓挫します。その中、学園を最後まで担っておられたのが山崎俊英先生であります。だから山崎俊英先生の書かれた『興法』という雑誌の文章は迫力があります。
 そして、その山崎俊英先生に教えを受けたのが、東京の坂東報恩寺の坂東環城師です。板東環城師は山崎俊英先生から教えを受けて、東京の坂東報恩寺から『開神』という雑誌が出版されたのです。
 『開神』には曽我量深先生が便せんに一枚か二回程度の巻頭言を書いた。曽我先生には珍しく書き下ろしです。その書き下ろしを一冊にまとめた本が、戦後に出版された『開神』です。これは非常に名著であります。短文ですから読みやすいし、非常に得るところが多いのです。
 また『開神』には高光大船もいくつかの文章を発表しておられます。それが『道限りなし』(高光大船著作集〈第四巻〉)です。
 興法学園はわずか二年ほどで事実上、幕を閉じます。昭和十年に曽我量深先生の「親鸞の仏教史観」という還暦記念講演会がおこなわれますけれども、そのときの発起人は、北原了義先生に教えていただいたのですが、興法学園一同です。だから、興法学園は雑誌は出なくなったけれども、かたちとしては少なくとも昭和十年までは存続していたのです。
 昭和十年、曽我先生六十歳、それを機にして、浩々洞から続いた僧伽の伝統が分かれます。
 一つは相応学舎です。これも曽我先生が名付けられた。安田理深先生が中心ですね。二つ目が、先ほど言った『開神』を出版した開神舎。三つ目が、鸞音学舎、曽我先生のご自宅です。この三つに分かれるのです。このように僧伽がずっと、それも教団の外において展開されていきます。これが戦後には真人社、そして同朋会へと続くことになります。
 ここまで、ずっと名を挙げてきました方々は、常に僧伽を念じ、そして宗門を意識しておられます。やはりお寺に生まれられた業がありますのと、宗門の外におられるけれども、宗門を意識しないわけにはいかないのです。そして、これらの方々の精神的支柱が曽我量深先生でありました。
 曽我量深先生はそんな政治家でありません。しかし、仏道がわかっておられるので、娑婆の道理もよくわかっておられたに違いないと思います。
 このような僧伽の動きのなかで、常に宗門を意識しておられたのが、訓覇信雄先生です。訓覇先生は興法学園には直接にはかかわっておられないけれども、興法学園からは大きく感化を受けた人であります。また、訓覇先生と言えば高光大船です。訓覇先生は高光大船のところにおいて、回心を得るということがあったわけです。
 高光大船から散々にしかられたのが訓覇信雄でしょう。お座が開かれた後の感話で、訓覇先生が壇上に上がって、私は卒業論文で「二種回向の原理」を書いたと言ったのです。すると、壇の真下に座っておられる高光大船は、「そんなものは風呂の薪をつける紙にしてしまえ」と言うのです。だから怖いのです。
 それで訓覇先生は困ったなと悩んで、悶々としていた。そのとき、「仏教は考えてわかるものでない」ということを散々に教え込まれたそうです。仏教は考えてわかるものではないと。それはそうでしょう。法身は色もなくかたちもましまさずというわけですから。「法身はいろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれず、ことばもたへたり」(唯信抄文意)。言葉もこころも及ばぬところが仏心、法性法身なのでしょう。
 朝起きたら隣におじいちゃんがいた。おじいちゃんも憔悴しきって、「仏教は考えてわからん」と言っている。「考えても、考えてもわからん」と言っていたのです。それを聞いていた訓覇先生が「ほんなもん、仏教は考えてわかるもんかい」と、そのおじいちゃんに向かって思った途端に、その自分の言葉が自分を照らしてしまう。そこで「ああ、そうか。仏教は考えてわかるものではなかった」と。これを回心というのです。
 そんな体験を訓覇先生はしたものだから、この世の喜びは仏道によってはっきりするということが、間違いない確信として、訓覇先生のなかに太いものが生まれたのです。
 そこで、訓覇先生は高光大船を自坊に呼んだのです。すると高光大船は、集まってきた門徒さんたちに対して、「おまえらみたいなものは助からんやつだ」と言うものだから、門徒が暴れたのです。高光大船の行くところはいつも問題が起こる。
 おそらく、訓覇先生のことばであったと思いますが、「今まではあめ玉をねぶらせておくようなお説教しか聞いたことのない門徒が、ありがたいお説教を聞いていた門徒が、急に高光先生によって劇薬を与えられたものだから、腰を抜かした」と。しかし、腰を抜かしたとともに目覚めたものが、ぽんぽんと出たのです。訓覇先生の自坊金蔵寺の小島という村には、仏道に目覚めた人がぽんぽんと出たのです
 まさに小島は僧伽と化したのです。すると訓覇先生には確信がわき出るのです。間違いない仏道はこういうかたちでできるのだということの確信を得た。それが同朋会運動の原形です。
 昭和16年頃、当時大谷派宗門は戦時教学の対応に困っていました。それをどういうかたちで打開するか。そのためには曽我、金子を呼んでこなければ無理であろうということで、関根仁応学長の元、昭和16年に曽我・金子両先生は大学に復帰されました。そしてその背後には訓覇先生の尽力があったことは明白です。つまり曽我先生が大学に戻られる前に曽我先生を「講師」にする。講師といったら宗門の教学の権威です。今まで異安心であったものを教学の権威に据えたのが訓覇先生です。
 そして、この訓覇先生を軸に、敗戦後の日本に真人社が誕生しました。真人という名前は曽我先生が命名されたということです。真人社の志願は戦後復興です。戦後復興を浄土真宗においてやるのだというわけです。真宗仏教において戦後復興をやるのだといって、戦後復興に邁進したわけです。
 このように、戦後の真宗仏教は、真人社から始まったのです。これも宗門の外で、です。ここには、何とかして純粋な信仰を維持していきたいという願いが、根っ子にあるわけです。これが清沢以来の伝統です。真人社は信仰運動の結社でありました。そのことは『大谷派なる宗教的精神』の三〇〇頁にあります。
 「真人社は信仰運動の結社であります。そうして、これは人間が作ったものでなく、云ふならば、向ふから開けて来た、生れてきたものであります。即ち、歴史の必然によって生まれ、我々も亦その一人として召されたのだと云ふのが我々の率直な感情であります」。
 これは昭和二十三年の『真人』第二号に発表されました。真人社は、純粋な信仰運動をおこなうのだ、としてはじまったものでありました。
 訓覇先生は真人社をはじめる前年の昭和二十二年に教学部長として本山に入られたわけであります。そして、訓覇先生は改革をおこなわれた。たとえば、岡崎別院に浩々洞の流れをくむ人々を呼んで、奉仕団をはじめられたわけであります。
 ときの総長は豅(ながたに)含雄さんでありまして、豅さんは訓覇先生を呼ばれたわけでありますけれども、宗門内はまだ伝統的な力が強いわけでありますから、そのバランスを取らざるを得ないということがありました。そして最後には、訓覇先生たちは、いわゆる五部長と共に、宗門に辞表を出したのです。
 そのときの訓覇先生の言葉が、「このままではあかん。なんとかしなければならん」でした。時間が待ってくれないという感じです。悲壮な熱意が伝わってきますね。昭和二十二年の十二月ぐらいです。このままではあかんのや、なんとかせんならんということで、翌年一月に真人社がはじまった。だから真人社は非常な勢いをもってはじまったわけです。
 宗門はそのときは、蓮如上人の御遠忌に向けて一所懸命になっているのですけれども、一向に盛り上がらない。そして、終わってみたら、借金だけが残っていたというわけです。
 だから豅総長のあとに就かれた総長は努力するのですが、赤字が解消しないのです。なかなか難しい。
 そういうときに末広愛邦という人がおられて、次は私が総長になろうという邪心を持った人が出てきました。それを見ていた真人社の訓覇先生たちは、そんな思いだったらあかんというわけでしょう。宗門は教学によって立たなければならない、ということで、自分たちは宗議会に立候補するということになり、宗議会議員として当選をされたわけです。昭和二十五年のことです。当選によって新しい風が宗門に入った。
 訓覇先生なぜ真人社を辞めて宗門に入ったのか。それは、訓覇先生は、私の業であるからとおっしゃるわけです。やはり寺に生まれたものとしては、宗門がこのままの状況であれば、見過ごすことができないと。だから宗門の再建を願って宗議会に立候補したというわけでしょう。昭和25年のことです。
 そして訓覇先生を中心に末広愛邦をおさえて暁烏敏を呼んだのです。昭和二十六年一月、暁烏敏内局が成立します。
 暁烏は念仏総長ということでありまして、念仏の力によって赤字財政が回復したと言われています。
 当時は朝鮮戦争がありましたので、そういう特需も一方にあったし、それに加えて、念仏者暁烏先生がおられて金が集まったのでしょう。やっぱり念仏に対する信頼は宗門には深くあるわけです。念仏に門徒は応えるというわけです。
 そういうわけで、宗門は黒字に転じます。黒字に転じた途端に、先ほどの末広氏などの宗政のプロは、黒字に転じたからは、あとはわれわれにお任せくださいということです。だから暁烏さんに対しては、一年で黒字にしてもらったので、もうけっこうであるというわけです。
 それが「感謝決議」です。一年間たって、お金を集めてもらってありがとうございましたという感謝決議です。
 思えば昭和二十六年という年は暁烏先生が宗門を引かれたこともあり、一つの時代が終わったといえると思います。清沢先生から続いた直弟子が暁烏敏先生でした。その暁烏敏先生が昭和二十六年に総長を下りられる。また昭和二十六年には高光大船は死んでおります。
 加賀の三羽烏と言われる人たちの仏道はどういう仏道かと言いますと、簡単に言いますと、曽我先生のあの破格の難解なお説教に対して、群萌といわれる人々のこころに響くようなお仕事をされたのです。
 群萌のこころを耕したわけです。耕したから、あの曽我先生の難しい十七願、十八願、十九願、二十願。こういう願名の付く話だけれども、田舎のおじいちゃんや、おばあちゃんは、その三願転入を聞いて大いに喜んだというわけでしょう。教学者のほうがかえってわからないのです。そういう素地をつくられたのが加賀の三羽烏と言われる人たちのお仕事だったのです。
 加賀の三羽烏は全国に布教に回られ、そして仏法の種をまかれたのです。
 話が脱線していますけれども、私はこのあいだ旭川別院へ行って来たのです。今私は大学の研究で、大学院の学生が門徒さんのところに行って仏道というものの具体相を聞いてほしいと思っているのです。学生が実際に仏法に生きた人に触れるのが目的です。
 これは、いわゆる「聞き書き」ということで、北海道の旭川別院に行って来たのですけれども、そこにある男の方がおられまして、聞けば何とも言いようのない業苦を担っておられる。
 その方が、私の本の中の「宿業に泣く」という言葉によって救われたのですと、こう言って泣かれるわけです。
 私はその方に学生に会ってほしくて、そして学生二人と三人で行って来たのです。そうしたら学生がショックを受けて、私はもっと真宗学を勉強しなければならないと思ったけれど、この人に会ったら、私の勉強しようと思った真宗学は吹っ飛んでしまったと言うのです。これは正直な感想です。業の深い人は真宗学では救われないのです。
 そういう人は、決してたぐいまれではないと思うのです。本来はもっとたくさんおられるはずに違いないと思うのです。ただ、今の時代はいろんなものが発達しておりますので、たとえばカウンセリングとか、人生相談とかがあったり、昔のお寺の担っていたところまで、そういう機関が担っているわけです。そういうかたちで寺以外の機関が担っているけれども、それでは救われないということがたぶんあると思います。寺でなければたぶん救われないと思う。
 だから終末医療ホスピスにしても、あれはいのちを延ばすだけの、いのちというより自分の生きたいという欲望を延ばすだけの方策でしょう。ところが真宗はそうでないです。あなたは死ぬのだという事実にわれわれが気が付いて、その事実を受け入れる。だから死んでもよろしいという身になるというのが真宗の救いでしょう。死を死として受容できる。それがなかったら本当は救いはないのです。
 ところが今のホスピスというものは、全部死ぬことを先延ばししているだけだと思う。死ぬまで生きがいを持てと。そうではなくて、死んでもいいという世界の発見、これが真宗の教えであります。ですからわれわれは本当に頑張らねばいけないと、いろんな意味において思います。ここに同朋会運動の果たすべき使命があるように思われます。
 さらに言えば、たとえば同朋会運動に頑張る、と言っても、そこにはやはり、プログラムあるいはカリキュラムがなければなりません。教化のためには具体的な教化策が必要でありまして、それを何とかして作成しなければならないのです。『大谷派なる宗教的精神』の二四五頁を見てください。これは私はたまたま教育現場におりますので、こういうところに目が付くのでありますけれども、教化プログラムを中学生を対象としては広小路亨、男子高校生を対象として寺本恵真、女子高校生を対象として川上清吉、大学生を対象として深草淳、仏教青年会を対象として渡辺潅水、職場青年を対象として仲野良俊、教化の中心課題。こういう書物が出版されているわけです。当時は具体的でありました。
 その次のページを見れば、教師修練も大幅に変えている。ここでは私は北原了義先生の書かれたものをたぶん引用したと思いますけれども、ずっと教師修練も、これは大幅に変わっているし、だいたい教化研究所を教学研究所に変えている。同朋壮年大会もやっている。ということで、御遠忌を盛り上げるためのイベントではなくて、当時の宗門は本当に門末が一体となるような動きをやっておられるということであります。
 本日申しあげたかったことは何かと言いますと、親鸞に帰ると、あるいは親鸞の仏道というものを明らかにするというのが今御遠忌を前にして必要であるということであります。親鸞の仏道とはいったい何であったかと尋ねてみれば、親鸞の言葉でいえば「愚禿」の自覚という言葉に集約されるわけであります。また曽我量深先生で言えば「食雪鬼」の自覚になるわけであります。清沢満之先生でい言えば、これは「自己とは何ぞや」という問いになるわけであります。
 そして、その「自己とは何ぞや」との問い、また「食雪鬼」、「愚禿」の自己との自覚、その自覚そのものは、実はこれは如来のはたらきによって促されているのである、もっといえば如来のはたらく場が「愚禿」であり、「食雪鬼」であり、「自己とは何ぞや」の自己であったということであります。
 今、われわれは念仏を称えようと言うかもしれませんけれども、しかしその念仏を称えるという念仏は、われわれのどこから出ているのか。そういう問題でしょう。「身を粉にしても報ずべし ほねをくだきても謝すべし」という『恩徳讃』を、われわれは本当にこころからうたえるのかということであります。
 そして今、われわれはそういう問題を持つ、あるいは感ずるということがなければ、おそらく真宗は回復しないと思います。いくら『教行信証』を勉強したとしても、『大経』を勉強したとしても、勉強する視点が不明確であれば、勉強のための勉強になってしまって、先ほどの学生が言ったように、そういうような業深き人の前に出たら、私の真宗学を頑張ろうという思い、そのものががたがたっと崩れ去ったというようなものであります。
 そういうもろい仏道に、今われわれが立っているのであれば、これは大いに、われわれは自分を戒めて、自分で自分の尻をたたいて、頑張らなければならないなと思うことでございます。
以上


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