トップ 三条教区 三条別院 仏事 越後の親鸞 真宗の教え 正信偈 法話
真宗大谷派(東本願寺)越後三条教区ねっと
越後の親鸞 
トップ聖人の歩み越後での生活七不思議>逆竹焼鮒焼鮒円盤三度栗八房の梅・数珠掛桜御名号繋ぎ榧・片葉の葦 │御上陸の地
竹林の写真 鳥屋野の逆さ竹
由緒沿革


承元元(1207)年、親鸞聖人35歳のときに念仏弾圧によって越後に流罪となった。流罪1年目は米と塩をもらい、翌年から自給自足の農耕生活をしながら、越後の人々と交わっていく。聖人が越後で過ごされたのは7年間だが、国府から鳥屋野に移り、数年間草庵をむすんで、農民とともに暮らし、布教して過ごされたという。聖人の当時のご苦労が偲ばれるのは、念仏の教えを広めようとしておられたが、誹謗されることも多く、聖人は「此里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし」と歌を詠まれた。そして、竹の杖を地面に挿して「我が弘(ひろ)むる所の法 若し仏意に称(かな)はば此枯竹必ず当に根芽を生ずべし」と言われた。その後、枯れた竹は青々と繁茂して一大竹林となったが、不思議なことにその枝は逆さに伸びていた。その後、聖人の遺徳を偲んで、順徳天皇が承久3(1221)年佐渡へ流されるときに鳥屋野に立ち寄られ、「はしたかの鳥屋野の浅茅ふみわけて おのれとかえる秋の狩人」と詠まれている。(西方寺向かいの鳥屋野神社に句碑が刻まれている。)
西方寺では、蓮如上人縁の染め分けの竹も一緒に拝見することができる。紫竹と淡竹とが真ん中から見事に色が変わっている。仏法がその竹のように嘘偽りない教えであることを証明しようとしたものだという口伝と、「はるばると鳥屋野に祖師の跡とへば 涙に染むるむらさきの竹」という蓮如上人の歌が残されている。


西方寺の開基は、弘安5(1282)年僧明珍が能登国羽咋郡北畑村にて一宇を創立して、慶長9(1604)年に上杉謙信の一向庇護の下、金津に移り住んだ。元和5(1619)年4月に本山より親鸞聖人御旧跡鳥屋野院保護の命を受けて、ここ鳥屋野に移転した。本堂は、草庵をお守りするように向かいあって建立され、りっぱな杉林の街道があったそうであるが、寛政8(1796)年火災にあい、萱葺きの本堂は焼失し、享和元(1801)年に現在の場所に再建された。そのため、逆さ竹の竹林と親鸞聖人御留錫の草庵のご旧跡は飛境内にある。旧本堂の場所は、現在墓地になっており、その墓地内に、親鸞聖人が布教中に枕代わりにされたという枕石が残っている。昔、この辺りは川蟹がたくさん捕れたそうで、その川蟹まつりが、いつしか親鸞聖人の教えを深くたずねる講中の集まりとなり、現在の鳥屋野まつりとなった。昔は信濃川の向こう岸の大野や遠方から渡し船で多くの人がやってきたという。親鸞聖人への親しみは、いまでも脈々と受け継がれ、鳥屋野まつりは、西方寺を中心に4月25〜26日に盛大に行われている。親鸞聖人の像は、昭和19年に国に供出されたが、昭和55年清水フード中島清会長が聖人像を草庵跡に建立された。その堂々たる聖人の像の前に立つと、この地で過ごされた聖人の姿が偲ばれる。

鳥屋野の「とや」とは、「塒」と書き、鳥のねぐらという意味と、鳥の羽が季節によって抜けて生えかわることを意味する。実際、この竹林をたくさんの鳥たちがねぐらとし、また巣立っていったようである。逆さ竹は大正11年理学博士の三好学氏により調閲され史蹟として国の天然記念物として認定され、保護されてきた。近年中には駐車場完備の竹林公園として整備されることになっている。その他、親鸞聖人の鳥屋野に関するご旧跡としては、本願寺派鳥屋野院北山浄光寺※1と、本願寺派鳥屋野院蒲原浄光寺※2があり、親鸞聖人、蓮如上人縁の寺宝がある。

※1 承元元(1207)年親鸞聖人が鳥屋野に草庵を建てられ、建歴元(1211)年草庵を浄光寺と号された。慶長10年(1605)現在の西堀に移転した。 浄光寺の跡は鳥屋野の竹林にある。
※2 寛文11年(1671)度々の水害にみまわれたため鳥屋野から移転された