親鸞聖人は、国府から移られて約3年間鳥屋野に逗留され、仏法を広めるために布教されていた。
建暦元(1211)年11月17日に赦免のお沙汰が下るため、国府にお帰りになることになり、村人たちが山王権現の社に集まって別れの宴をした。
各々が携えた手作りの酒を聖人はひとつの器に移して召し上がられたので、この地はその言い伝えに因んで「合子ケ酒」(ごうしがさけ)とつけられ、後に「合子ケ作」となり、黒崎村と昭和23年に合併して、現在の山田という地名になる。
そのお別れの宴に、ある村人が持ってきた焼鮒を聖人は御洗水(みたらし)池のほとりの榎に袈裟をかけ、「我が真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんば此の鮒、必ず生るべし」と南無阿弥陀仏と言いながら、池に放つとその鮒は生き返ったという言い伝えが残っている。
聖人はお念仏の尊さが後世の人々にも伝わるように、袈裟を掛けた榎にわが心を残すと言われ、国府に発たれた。
村人たちは、この榎を「お別れの袈裟かけの榎」と名付け、大切に守ってきたが、寛政8(1796)年に台風で倒れてしまった。
その二股に分かれた幹の切り口からお念仏をされる聖人様の姿が現れた。
そして驚いてもう片方を挽き割わると、お別れに差し上げた鮒が木の芯のどこを切っても中心に現れたそうである。
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| 焼 鮒 |
焼失した聖人のお姿が現れた榎の写真 |
山王権現のお守りをしていた田代家が、榎木に写された聖人の御姿と焼鮒の御形、聖人の御真筆の名号をずっとお守りしていたが、残念なことに親鸞様のお姿とご真筆の名号は、昭和23年9月4日に疎開者の火の不始末で家が全焼し、焼失してしまった。
しかし、現在も焼き鮒は大切にお守りされている。
御洗手池は、信濃川が明治29、30年と続けて大氾濫したため、嵩上げ工事で埋められてしまった。
山王権現も洪水で場所が移転し、下山田にある妙義社(現 山田神社)に合祀された。
合子ケ作という地名のように、鳥屋野近辺には、立仏(たちほとけ)、寺地(てらち)、紫竹(しちく)など不思議な地名が多い。
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