滔々と流れる阿賀野川を越えると安田に入る。現代とは違って、聖人は船をお使いになって念仏のみ教えを弘めるため布教活動を行っていたことがわかる。
親鸞聖人は、承元元(1207)年、35歳のときに念仏弾圧によって越後に流罪となり、越後各地でお念仏の教えを説かれていた。この保田にも足をお運びになり、「渡辺家」にもしばらくご滞在になった。渡辺家の先祖は、羅生門の鬼を退治した渡邊綱で、その九代目の子孫、渡邊播磨の治郎源競(きょう)は平家打倒の戦いで討ち死にし、妻子は越後に落ち延びていた。競の命日にあたり、聖人からご教化を蒙り、お念仏とともに歓喜の涙を流した競の妻である老女は、お礼に焼き栗を聖人に差し上げた。帰途に、聖人は上野ヶ原(うわのはら)で老女と別れをするときに、焼き栗を出されて、「わが勧むる弥陀の本願、末世に繁昌いたさば、この栗、根芽を生じて一年に三度咲き実るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ。」とおっしゃられて栗を蒔かれました。すると、その言葉通り焼き栗は芽を出し、年に六月と八月、十月の三度花を咲かせ、その葉の先は二つに分かれて茂ったということです。当時の三度栗の木は枯れてしまい、現在の木は若木が育ったものだそうです。
同地では、「三度」の結実は、大無量寿経のご本願、第十八願文の「至心・信楽・欲生」の三心をあらわし、「二葉」は、光明・名号の二つを指し示しているとされています。
その後、聖人の書かれた六字名号を安置し、競の長男源五郎が出家して専念坊となり、三世祐念のときに覚如上人より専念寺の寺号を賜った。そのあと移るごとに寺の名が改められ、現在の孝順寺となった。
現在の本堂は、千町歩(ちょうぶ)地主と呼ばれた日本有数の豪農、斎藤家の邸宅を第二次世界大戦後の農地改革の折に国に物納されたものを競売し、昭和25年に遷座した。この300坪の大邸宅は、昭和元年から10年を費やし、総敷地面積3000坪の広大な敷地に建設されたもので、総柾無節材を使用し、柱には四方柾を多用し、桃山様式の格天井や欄間、紫檀・黒檀や鉄刀木(たがやさん)を配した床の間、そして組手越仕上げの障子などの豪華な造りで、池泉回遊式の庭園もすばらしい。
その他の旧跡として旧本堂のあった跡地も飛び地としてあります。

孝順寺庭園の冬景色
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三度栗真影
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