親鸞聖人は、承元元(1207)年、35歳のときに念仏弾圧によって越後に流罪となり、越後各地でお念仏の教えを説かれていた。白川庄小島の里には承元三(1209)年11月末頃より承元四(1210)年5月まで6ヶ月間念仏布教のため滞在された。京都から落ちのびていた佐吾助が、聖人の真弟子となり、蓮位房釈龍運の法名をもらい、梅護寺の開基となった。
また、聖人御逗留の間に、小島の里に住む夫婦が凡夫直入浄刹の信心を受得したことを聖人が大いに喜ばれ、十字の御名号をお与えになった。数ヶ月の逗留の間に、夫婦が塩に漬けた梅を聖人に差し上げると、「末代の凡愚弥陀の本願を信じまいらせ浄土往生うたがいなくんば、漬けたる梅より芽生じ、花一輪に八ッの実を結んで末の代に栄え、凡夫往生の証拠になれよ」とおっしゃられ、『後の世のしるしのために残し置く弥陀たのむ身のたよりともがな』と御詠吟してお手植えされたところ、不思議にも枝葉四方に茂り花八重にして色紅になり、一輪に八つの実を結ぶ八ッ房の梅となった。ご縁起には、「世に伝えて、これこそ末代の御門葉浄土往生の御証跡になるので大事にして信ずベし」と書かれている。400年前は、現在梅のある場所にお寺があったそうで、八ッ房の梅の木は、聖人が願われたように、末代まで念仏のみ教えとともに八つの実を結んでいる。ここを訪れた八代目蓮如上人は、『八ッ房の梅のみのりもおちおちて末に残るは弥陀の一実』という歌を詠まれている。
梅護寺は、文化十(1813)年に西本願寺19代本如上人から御降された西大谷本廟の聖人等身の真影を書写したものが下付され、別院資格が与えられた。真影は三方正面真向の絵像で聖人83歳の時のお姿である。
また、梅護寺には珠数掛桜という七不思議も残されている。縁起によると、親鸞聖人が小島の里を去られるときに、御数珠を街道の桜に掛け、御同行に「我が弘むる御法にいつわりなくんば花ふさ数珠の如くならん」とおっしゃると、不思議にも桜が聖人のお言葉に随順するように花が数珠の房をかけたように垂れ下がって咲くようになったという。珠数掛桜は、花弁が83枚もあり、樹高は7メートル、樹齢は800年近くにもなり、帝大植物学教授の三好学理学博士の研究の結果、昭和2年に天然記念物の指定を受けている。花の茎が長く、花びらは散らないで軸のまま枯れていく(現在の桜は7代目で、樹齢約50年)。近年ナラタケ菌に汚染され、7本あった桜は親木1本だけとなり、樹勢が衰退していたが、2002年から回復治療が始まり、寺の正面の道路を渡った場所に大切に育てられている。
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