信濃川の堤防の近くに川越波切御名号を守り続けてきた鈴木家の御堂がある。かやぶき屋根だった御堂は、現在より信濃川下手に位置していたが、洪水防止の排水機場設置のため、昭和55(1980)年6月に平島から移築された。信濃川対岸の鳥屋野の西方寺付近を見渡すことができ、当時船で行き来された聖人のお姿を偲ぶことができる。
中央のお厨子に、親鸞聖人御真筆の川越波切の御名号が安置されている。
また、御堂には3つの木彫りの欄間があり、90年前に大工、藤原工堂流の手によって、聖人の川越えのご様子などが生き生きと表現されている。
毎年4月25日に蓮如忌の講が行われ、10月11日には報恩講が執り行われる。
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| 本堂の欄間 |
本堂(蓮如忌の講の様子) |
来訪すると、法衣に身をつつんだ鈴木家の方が御名号の由来を拝読して下さる。
その由来の内容は下記の通りである。
承元元年(1207)、親鸞聖人35歳のときに念仏弾圧によって越後に流罪となり、罪を許されてから3年の年月を鳥屋野の里でお過ごしになっていた。ある日、平島村の新十郎のところに近郷近在の者が集まり、親鸞聖人は他力念仏の法を説かれた。その帰路、新十郎は聖人を平島から鳥屋野へお送りしようと、信濃川を船で漕ぎだしたところ、北風が激しく吹き、川を渡れず途方に暮れてしまった。すると、親鸞聖人は懐中から紙を出され、御名号をお書きになり、新十郎にお与えになった。新十郎がその御名号を船の表に掲げて命限りに漕ぎだすと、不思議なことに烈風を難なく波を切り分けて鳥屋野に着船することができた。
これより、新十郎は聖人の御徳の広大なことに感涙して肝に銘じ、子孫代々は大切に御名号を安置しお守りした。安永の頃に一人の僧が何処ともなく来られ、御名号を拝礼し、「どうぞ表具して下さい。」とお金を差し出された。そのお申し出は辞退したのだが、その僧のお志が有難く、その僧の帰られる後ろ姿をお見送りすると、4、5丁ほど行き過ぎると忽然とお姿が消え失せた。その後、たびたび御名号は盗難にあったのだが、そのたび夢のお告げがあって、いつも御名号は手元に戻ってきた。この不思議もまた聖人の御真筆の功徳であり、世に類ない川越波切の御名号をお守りする由縁である。この御名号は、新十郎ひとりのものではなく、末世の御流れを汲む念仏の同行へ及ぼして下さる御慈悲であり、おひとりおひとりが御形見として称名諸共に大切に拝礼して下さい。
このような内容の御伝抄を子孫代々ずっと守り続けてこられた鈴木家の方から拝読していただくと、素直に心の中に深く染みこんでいくように感じた。個人で御名号と御堂を守り続けることは大変なことではあるが、鈴木家の方々と、講中や近隣の方々の生活のなかに溶け込んでいる御同行の念仏の歴史をお聞きすると、この御名号をみんなの力でお守りすることの大切さを切実に感じた。
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