<本願寺 明治造営ゆかりの地 木揚場教会>
【 由緒沿革 】
廻船問屋として成功した坂井若利は、ある夜夢を見て、自分の畑が将来神社仏閣の建つ場所になると確信した。そして明治12(1879)年、本山から両堂再建のため献木を集積する木揚場の土地探しを依頼されると、坂井は喜んでその土地を寄進し、明治14(1881)年に新潟港木揚場として開場された。この木揚場から本山に運搬された用材は1474本にも及ぶ。一番の巨木は、阿賀野川流域小杉村から一ヶ月をかけ約1万人が携わって引き上げられた欅で、長さが14.2m、現在御影堂外陣正面の大虹梁として用いられている。(詳細は東本願寺ホームページ「再建の軌跡」をご覧ください。http://www.tomo-net.or.jp/)
木揚場に集まった門徒たちは、作業の合間に連日行われていた近郷の住職の法話を楽しみに、木材の引き上げ、選り分けを精力的に手伝ったという。
本堂再建後、全国に32ヶ所あった木揚場が次々と閉鎖されるなか、新潟も明治23(1890)年に木揚場としては閉場をする。しかし、本山連枝役の出張説法会を行うなど、本山直轄の説教場として賑わいを見せ、存続をしていくことになる。
現在は、三条教区から講師を迎え、年に13回程度定例布教が行われている。(日時はホームページを参照ください。)気軽に参加でき、休憩にお茶を頂きながら、また手作りのお昼を頂きながら、聞法生活30年以上のお年寄りから、曽我量深や金子大榮のお説法の様子など、なかなか聞けない話を耳にすることができる。昭和13(1938)年、数日布教が続いたときは、満堂で扉から入れず、窓から引きずりあげてもらって本堂に入った人々がいたほどの大盛況で、1晩に700人ほどが木揚場教会で寝起きしたそうである。ほんの数十年前にそれだけ熱心に聴聞された方々がおられたことに深い感慨をおぼえた。
また、木揚場教会は、建築として見ても興味深い。建物の前部分が木造二階建ての寄棟造りで、正面から見ると、円柱で支えられた切妻屋根のポーチとアーチ型のガラス窓に特徴があり、外壁はモルタルが施されていて、キリスト教の教会かと思ってしまう。しかし後部分は木造平屋建ての入母屋造りになっており、和洋折衷の珍しい建物だ。本堂正面の欄間は、漆喰を使ってコテひとつで模様が造られていて、みごとな職人技を見ることができる。また、内陣巻障子の框(きょう)金具は、銅板の打ち出しの模様がひとつひとつ違っていて、丁寧な仕上げになっている。
木揚場教会は、明治41(1908)年新潟大火で焼失し、当時本山は全国の説教所を縮小する方向で検討していたが、木揚場側が、現代的な建築にして若年層向けの説教所として活動することを提案し、本山から許可をいただき、大正15(1926)年このような和洋折衷の建物が再建されたそうである。最近は、建築関係者の見学も増えているという。運営管理は近郷の同行を中心にされており、現在も檀家はない。
この聴聞の伝統ある木揚場教会に身を置かせて頂くと、木材を本山にお届けする重責を担い、その後、説教所として守ってこられた方々の熱い思いを感じ、身の引き締まる思いがした。
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